うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

テレキャスターと、【彼女が重要と見ていたものは、いつでも患者の素材であり、分析家の感情ではありません。】


テレキャスターを調整に出します。自分で色々試しましたが、4弦のビリつきが直らないので、諦めました。
ボロボロですが、音はまだまだ現役なので、竹下さんにお願いします。



 今日は、休みでしたが、朝夕の送迎と夕方の入浴介助の手伝いをさせて頂きました。まあ、事務仕事も山積しているので少しやりましたが(笑)






 その待ち時間で本を結構読みました。総説がまだ読み終わりませんが、総説だけでもめちゃくちゃ勉強になります。
『今ここで』、ばかりを気にしていたら、退行しているところまで遡ってみることを忘れるし、またその逆もあるということを言っているのでしょうか?


 クラインの『彼女が重要と見ていたものは、いつでも患者の素材であり、分析家の感情ではありません。分析家の感情は分析家が適切に機能していないときに分析作業を妨げる風にのみ湧き上がってくると彼女は考えていました。』という態度は、見習わなければいけませんね!
 読み続けていくと、もっともっと考えないといけないことが出てくるので、大変ですが(笑)、頑張って読み終えたいと思っています。
 

第2に、解釈の言葉の変化があります。クラインは、小さな子どもとの分析でその子たちには意味深く適切であった、部分対象や身体機能についてのまったく具体的でなまなましい言葉を展開しました。振り返って推測してみますと、幼児はまさにそんなふうに感じ考えているし、誰の無意識でもこれが考え、感じる言葉であると彼女は考えていたようです。クラインのこの以降の業績で、大人の分析、とくに精神病患者や境界−精神病患者の例で、身体に基礎を置くなまなましい空想がしばしば意識化されることが豊富に描き出されています。子どもたちとのクラインの仕事についての文章や彼女の有能な弟子や後継者たちの臨床レポートを読めば、彼らの臨床的な想像力や無意識的空想の理解に強く印象づけられましょう。しかしながら、あまり熟達していない場合にはこのアプローチは新鮮さを失い、型にはまったきまりきったものになってしまいました。上述したように、もっと若くて熱狂的なある後継者たちは、情緒的ふれあいの生きた瞬間を認識しておくには有害であるようだと今日では見られている、融通性なく象徴という形態から見た語られる内容やふるまいの内容という点から解釈をこしらえました。そうした解釈は、患者への分析家の豊かな感受性には基づいておらず、患者の素材の中に分析家がすでに作り上げている概念の証拠を見出だしたいとの願望に基づいています。ビオンの言う“記憶”と“欲望”が仮説と感受性に取って代わります。もちろん、この偏見ある態度はある分析概念のセットに連動します。あるクライン派分析家たち、なかでも、ドナルド・メルツァーは、部分対象身体言語で、無意識の空想をただちに直接に解釈するほうが適切であると考えています。しかしながら第1巻の展望に書いたように、一般の傾向は、解剖上の構造(乳房、ペニス)よりも心理的機能(見ること、聞くこと、考えること、排泄することなど)の点から患者、とりわけ非精神病患者に話しかけるというものです。このように機能に強調を置きながらと転移での患者のここでの体験に専心していくことが、ときには幼児期の身体的な体験に基づいているようである。意味するものの深層へと導いてくれます。はやまって身体用語あるいは部分対象用語で無意識の空想について話すことは、分析家と患者があたかも第三者についてであるかのように患者自身について話していくこととなってしまいやすいのです(Joseph 1945, Riesenberg Malcom 1981)。しかしながら、分析家がまさにその現在、今ここで、にあまりに専心しすぎてしまうなら、今ここでのなまの表現の基礎にある体験の幼児期水準を見失ってしまいます。言わば、その赤ん坊は湯ぶねのお湯とともに放り出されてしまいましょう。表現のどちらの水準もいっしょに耳を傾けられ、体験と結びつけられることが必要です。




〜第3として:転移の分析での投影同一化概念の使い方の変化です。クライン自身が投影同一化を紹介したにもかかわらず、身近な同僚の間にすばやく広まった、転移の分析での使用を彼女の示さなかったようです。第1巻[1]で私が示唆したように、今日では私たちは、最も広義の投影同一化に基づいているものと転移をみなしています。スィーガルによれば、クラインは仕事の中で投影同一化の概念をよく使っていましたが、患者の願望や知覚や防衛についての表現法としての投影同一化についての解釈を伝えていたようです。〜
彼女が重要と見ていたものは、いつでも患者の素材であり、分析家の感情ではありません。分析家の感情は分析家が適切に機能していないときに分析作業を妨げる風にのみ湧き上がってくると彼女は考えていました。彼女の考えはいまや伝説となった若い分析家との話に現れています。その若い分析家はクラインに、自分は混乱したので、そこで患者に患者が自分に混乱を投影していることを解釈したと伝えました。クラインはそれに応えて言いました。「違うでしょう。あなたが混乱しているのです」(Segal 1982 )。想像力分析家は患者の素材を理解しておらず、それがあたかも患者の投影でもって引き起こされたかのように自分自身の理解のなさを解釈したということです。 しかしながら、この例は投影同一化という概念の間違った使い方の例です;その分析家は自分自身の問題がわかっていません。そこで彼は自分自身の欠陥を患者のせいにしています。しかし一方、ビオンはまったく同じ過程を使っています。だが、その使用は患者自身の中ではもちこたえられないが、無意識には表現したがっている感情で、分析家にコミュニケーションとして理解されるかもしれない感情を分析家の中に引き起こすよう試みている患者のそれがやり方のあざやかな把握に基づいていました。第1巻の「投影同一化」の部でこの過程の例を私はまとめました。そこでは、精神病患者とのあるセッションの中でビオンは怯えを感じたのでした。そこでどうか自分でビオンを殺すという恐怖を患者はビオンの中に押し込んでいると患者に解釈しました;それからセッションを雰囲気は緊迫が幾らかほどけたものになり始めましたが、その患者はこぶしを握りしめました。それについてビオンは、患者がわかっての中にその恐怖を取り戻したのでちょっと自分が殺人的な攻撃をやってしまうのではないかと今では(意識的に)恐れていると伝えました(Bion 1955)。このようにビオンは、患者は自分が無意識に感じ考えていることを分析家に感じさせるやり方で振る舞うことができるとの考えを使いました。クラインとは異なって、彼は患者が行っていることについての情報源として自分自身の感情を使う心構えができていました。