うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

石化ひのきと、【ものわかりのよい母親なら、この赤ん坊が投影同一化によって懸命に取り扱おうとしている恐ろしい感情を体験でき、それでも平穏な顔を保っていられる。】


 今日は、夜勤です!
午前中は本を読んだり、体を追い込みに行ったり(笑)していました。
 写真は石化ひのきです。年末チャリティー用に安く仕入れましたが、仕入れるのが早かったでしょうか?後3か月この状態を維持できるでしょうか?
取り敢えずは、水やりですね! 少しずつチャリティーの準備をさせていただいています。

 なんやかんや(電話対応がほとんどでしたが)していたら、もうすぐ夜勤の時間です。


 

 あまりにも、ビオンが難しいので、ちょっとあとがきを覗いてみたら、ちょっと安心しました(笑)


監訳者あとがき
 本書に収めています論文は、スィーガル論文以外はすべてが初めて訳出されました。ご存じの方も多いと思いますが、原論文自体がその水準の高さゆえ、難解な箇所をたくさん含んでいます;真実は平易で簡潔だと言いますが、それは真実が十分に見極められた時のことであり、その途中では見通しがとても難しいことは、科学の発達の歴史が私たちに教えてくれているところです。 精神分析も発展の途中なのです。名著とはいえこれらの論文も同様です。とくにビオンの論文は英国人でさえビオン専門辞書がいると言うほどです。本書を読んでおられるあなたがある論文に魅かれたのなら、自分自身の臨床経験と重ねていきながら、繰り返しその論文を読み返していくことで必ずあなたのりかは深まっていくことでしょう。





 下記は、現場でも言える事なのではないでしょうか?

『その子どもが欲しがっているものを理解するためには、幼児の泣き声を、母親にいて欲しいという要求以上のものとして母親が取り扱うべきだったというのが私の推測である。幼児の立場から見れば、母親は、死につつある子どもの恐怖心を彼女のなかにとり入れ、そんなわけだったのかと体験すべきだった。彼は、恐怖心が巣くっている人格部分とともに、その恐怖心を分割して吐き出して、それを何とかして母親のなかに投げ入れようとした。』
ものわかりのよい母親なら、この赤ん坊が投影同一化によって懸命に取り扱おうとしている恐ろしい感情を体験でき、それでも平穏な顔を保っていられる。そういった感情を体験することにもちこたえきれずに感情の侵入を否認するか、幼児の感情のとり入れから起こってくる不安にとりつかれてしまう反応をする母親を、この患者は相手にしなければならなかった。』



 頑張って読み続けていれば、今の自分の頭でも少しは理解できる箇所も出て来ます(笑)間違った解釈をしていなければの話ですが......。


正常範囲の投影同一化についての否認
メラニー・クラインは、『分裂的機制についての覚書』(1946)のなかで、ひどい障害をもつ人格を作り出す点での、分割と投影のの過度の利用の重大さについて述べている。さらに、“よい対象、とりわけ、母親の乳房のとり入れ”を“正常発達の前提条件”だとも述べている。私はどこまでが正常範囲かは限定しないが、正常範囲の投影同一化があり、これがとり入れ同一化と連合して正常発達の基礎になると想定している。 この印象は、ひとつにはを確実な証拠に支持されている解釈をするには、いつでも十分に立ち入れているとは思えなかったゆえに解釈しがたかったある患者の分析でのある特徴からきている。投影同一化はこれまで自分ではあまり利用できなかった機制だと絶えず示唆しつつも、患者は分析のあいだ中それを使った。分析は、患者がごまかされ続けてきていた機制を使う機会を彼に与えていた。私の根拠は、この印象だけではない。投影同一化の使用を彼に許さない対象があると彼が感じていると私が思うに至ったセッションがあった。〜
つまり、私がそれらをあまりに素早く吐き出したために努力感情が修正を施されるどころか、よりつらいものになったと患者に感じられたのだと私は思う。
 これらの描写が抜粋された時期よりももっと早い時期の分析の連想において、患者の感情の激しさが増してきていた。これは、私が患者の人格の一部を受け入れるのを拒んだ、と患者が感じたためだった。このため、患者はいっそう必死になって、荒々しくそれらを私の中にこじ入れようと躍起になった。分析の文脈から切り離せば、患者のふるまいは一次攻撃性の表出とみることもできただろう。投影同一化という患者の空想が猛々しくなればなるほど、彼は私を恐れるようになった。このふるまいが、挑発されたのではない攻撃性を表していたセッションもあるにはあったが、私がこの一連のセッションを引用したのは、患者の猛々しさが、私の敵意のこもった防衛と患者が感じていることへの反応であるという違った視点から患者を照らし出してくれるからである。この分析状況は、極め早期の光景を目撃しているとの感覚を私の心の中に作り上げたです患者との、幼児の頃に、子どもの感情表出と従順に対応した母親を体験してきている、と私は感じた。この従順な対応には、「子どものどこが具合悪いのか私にはわからない」とのいらだった要素があった。その子どもが欲しがっているものを理解するためには、幼児の泣き声を、母親にいて欲しいという要求以上のものとして母親が取り扱うべきだったというのが私の推測である幼児の立場ら見れば、母親は、死につつある子どもの恐怖心を彼女のなかにとり入れ、そんなわけだったのかと体験すべきだった。彼は、恐怖心が巣くっている人格部分とともに、その恐怖心を分割して吐き出して、それを何とかして母親のなかに投げ入れようとした。ものわかりのよい母親なら、この赤ん坊が投影同一化によって懸命に取り扱おうとしている恐ろしい感情を体験でき、それでも平穏な顔を保っていられる。そういった感情を体験することにもちこたえきれずに感情の侵入を否認するか、幼児の感情のとり入れから起こってくる不安にとりつかれてしまう反応をする母親を、この患者は相手にしなければならなかった。思うに、後者の反応は稀であったにちがいなく、否認が主だった。人によっては、この再構築はあまりに気ままな空想に見えようが、私はこの再構築は強引だとは思わないし、転移にあまりに重きを置き過ぎていて早期の記憶をきちんと明るみに出していないと異義を唱える人への私の返答である。