うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたね家族会と、【この原初的二者関係の相手役は分析者で、分析者は原初的対象愛の“対象”にあらゆる点で合致できることである。深い場面での行動においても、患者の空想の中で分析者が演じなければならない役割の中でも――。】


 今日は、うたたねの家族会が、ご家族の要望があり、開催されました。
自分が今日は夜勤明けで、利恵ちゃんは、早番さんに違う服を着せてもらっていましたが、出る前にこの服を自分で選ばれたようです。女性職員から頂いたこの服が、お気に入りの様ですね!よく似合っていますのもね!

 お寿司を頂きながら、ホームの方とそのご家族、ショートの方とそのご家族、日中一時の方と、そのご家族と、うたたね職員が集まりました。先日、総会でもお互いにお会いされた方もおられましたが、場が変るとまた新鮮な感じがしました。







 アコースティック・ギター演奏を、管理者から命じられましたが(笑)、メインのギターがメンテナンス中なので、今あるギターは音量がでないので、歌の伴奏ならと、たかちゃんと相談して、曲を決めました。


 ご家族が近くにいると、みなさん一次愛に依存してしまっていて(笑)、大人しくなってしまっています。
昨夜、夜勤時にブログを更新していたのですが、巡回などしていたら、すっかり忘れていて(笑)写真を差し替えての更新になりました。昨夜もいのうえっちが、魅せてくれ、みなさん楽しい一夜を過ごせました(笑)
一枚、貼り付けておきます。



 本は、夜勤明けに、ファミマで休憩がてら読みました。次回からは、フェレンツィに入ります。
バリントもまだまだ、紹介させて頂きたかったのですが、キリがないですね。


 会場を、快く貸して下さった、神戸館の長澤さんご夫婦には、感謝の言葉しかありません。
うたたね職員の3本柱の職員の前で、自分はこの事業は大変だから止めといたほうがいいと、どれだけ言ったことか。と話して下さり、職員にあんたたちは本当に頑張っているので、頑張り過ぎて体を壊さないようにして欲しいとも言ってくれていました。年末チャリティーのお話も、今日もして頂け、本当に感謝です。





  自分達も、利用者さん達が困っておられる時には、一次的対象物になり(演じ)、そこに同一化したり、されたらりして、転移・投影・取り入れ等、相互的に行って、それを反復して(少しずつ強度を高めながら)行くことをやっていければ(そのためには、支援者が生き残っていなければなりません),下記にあるように『この原初的形態の関係を成熟したものに変化させる過程。』に、入ることができると思われるので、それをやり続けています。
 そういえば、夜勤明け、シャワーを浴びて、自転車で直ぐに会場に向かったので、覚醒してしまい(笑)まだ全然眠くないです(笑)。明日は休みになっているので、ゆっくりさせて頂こうと思いましたが、事業報告や法務局に出す書類、給与計算もしなくてはいけないこと思い出してしまいましたので、それらを一気に片付けたいと思っています。




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 〜第三の難点はこうである。この原初的形態の関係を成熟したものに変化させる過程。開始し維持する力動的メカニズムについての私たちの考えはどのようなものであるべきだろうか。このメカニズムは人間を生物学的基盤に内在させるものなのか、つまり少なくとも潜在能力は生まれつき持っているのか、それとも主として外的なものすなわち環境に発祥するのか。後者の角度から考えるならばわれわれ分析者の仕事は何よりもまず、この発展過程を開始させ維持するための影響を提供することにあることを認めなければならない。むろんそれは狙いも正しく十分コントロールされたものでなければならない。ある程度以上退行した個人が独力で退行から抜け出す見込みはあまり大きくなさそうである。これには分析家の間で異論はなさそうだと私は思う。 “適切な”分析的援助が与えられれば、退行からの脱出の見込みはぐっと向上する。この角度から見れば“適切な”分析的援助とは原初的な対象関係を成熟した対象関係へと変えるうえで非常に好ましい外的条件のことである。では分析家側からみた“適切な”分析的援助とは、どういうものであろうか。それは可能なかぎりアンヴァレンスが少なく、すなわち憎しみがほとんど存在せず、分析状況においては分析家自身の満足を倦まずたゆまずきめ細やかにコントロールしつづけ、患者のどのような欲求や要求にも“正しく”反応できるような目ざとさをいつも維持し、分析過程によって患者が刺激されすぎたり刺激され足りなかったりして、抑止や不安を生むようなことがないようにと、たえず目くばりをしていて、そのような抑止や不安があれば理解の行き届いた解釈によってそれを手ぎわよく解消させることである。これらが“適切な”分析的援助だということにも私たちは賛成するだろうと思う。これらは、分析家が演じなければならない複雑な役割のうちの特殊重要な特徴の、それもほんの一部に過ぎないが、これくらい言っておけば、分析者の役割とは、このように論文で述べた原初的の対象という役割を(さまざまな形で)演じることである証明には十分であろうかと思う。それは、あってあたりまえのものと見なすことができ、たえず、その関心や感情や感受性などは一顧だにする必要もなく、自分が必要とするときに常に必ずそこにいてくれる対象である。面接時間中は文字通りただの対象、すなわち物として用い扱うことのできる対象である。 まとめてみよう。対象との関係だけではあるが、愛と憎しみともナルシシズムともと言えない原初的状態を仮定することが有用なのは、それがわれわれにどんな形でも、かかわりもせずにおらせてくれるという点だけであるが、他に有用なことがあるとは私には思えないので、患者が遭遇する状態は、何れほど固着や退行が深くても、そのような机上の仮定にあてはまるものはなく、逆に、原初的対象愛の像にはぴったりと当てはまるのである。次には同じくらい重要な論点として、この原初的二者関係の相手役は分析者で、分析者は原初的対象愛の“対象”にあらゆる点で合致できることである。深い場面での行動においても、患者の空想の中で分析者が演じなければならない役割の中でも――。