うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【したがって、基底欠損領域あるいは創造領域に退行している患者に大体いつでも有用な技法は、私の経験では、解釈をもって強引な介入を試みないで当面寛大に退行に耐えることである。】



 今日は、近場で散歩しようと、白谷に行きましたが、潮干狩りがあり、駐車場に車が満杯で置けませんでした。
仕方なく、滝頭に向かう事にして、衣笠林道経由で山の中を走ってα波を浴びていこうと思い、山を走りました。
 滝頭では、やぎさんこわい!と言いながら(笑)利恵さんは走ってやぎさんのもとに行きました(笑)
皆さん楽しそうですね!



 散歩をしてから、丈二君の希望で、マックに行きました。
ゆっくり食べてから、池ノ原に行き、椿公園周辺を散歩して、お薄を頂きに行きました。
 ここに来ると、みなさん落ち着かれます。不思議ですね?日本人のDNAが作用するのでしょうか?
今日の先生が、歌の好きな女の子は来ないの?って聞いて来られたので、だれだろう?と考えたら、かおちゃんのことでした。
先生の中では、かおちゃんが一番印象にある様でした。そういえば、いつも一緒に歌いながら散歩して、お薄を頂いています。



午後からは、いのうえっちが、移動支援が終わる14時までゆっくりして、みなさんですろーじゃむにお風呂に入りに行きました!
まつおさんは、一人になった瞬間、泳いでいて(笑)外までバシャバシャと聞こえていました(笑)
 まりちゃんはほぼ寝ていましたが(笑)利恵さんは、ずっとニコニコされていました。
今日も楽しい一日を過ごせたこと、皆様に感謝しています。

 うたたね管理者兼看護師さんが、利用者さんのお母さんのケアに、休日なのに行って心のケアをしてくれていました。
こちらも感謝です。
 今年は年初から色々あり、バタバタでしたが、うたたねでは何かあると、いつも良い方に向かうので無理難題、大歓迎です(笑)
まあ、なるようにしかなりませんよね!

 今日も早番でしたが、早めに出てファミマで本を読みました。一次愛の方も、初学者には、ただただ勉強になっています。
アップは、残り少ない貯金分です(笑)


 ここにきて、ハッキリとその技法が記述されています。

『したがって、基底欠損領域あるいは創造領域に退行している患者に大体いつでも有用な技法は、私の経験では、解釈をもって強引な介入を試みないで当面寛大に退行に耐えることである。』

 
 教科書の学習ガイドみたいに、解答がはっきりしているわけではないので、ケースごとにやり方があるので、これらが即解答とは、中々いきませんが、大きなヒントは与えて頂きました。下記が出来れば(少し前に同じような記述がありましたが)新規蒔き直しが出来るような気もしますが、一筋縄では行きませんね......。でも、それを考えるのが自分たちの仕事です。
 
『換言すれば、分析者は退行を受容しなければならない。分析者と患者とが一種の相互体験として退行を寛容できる一種の環境あるいは雰囲気を分析者の方が醸成しなければならないという意味である。』


 下記のように、時間がかかるので、それが上記の結果・効果と中々認めてもらえないのかもしれませんね(笑)めちゃくちゃ頑張っても、周囲の評価がこれだったら、本当に笑うしかない(笑)

『長短いずれにせよ、この時間の長さは外からの働きかけで左右できない。患者が自分の無意識の中から創造を行う場合も必ず同一の事態であろう。これは分析者の通常の解釈が、この領域に退行した患者に到底承認不可能と感じられる理由の一つかも知れない。解釈とは全体的な“構造化”されたもので、創造領域のまだ構造化されていないカスミあるいは夢のような内容と相互作用すれば、ぶちこわされるか、不自然かつ過早の構造化を惹起しかねない対象や思考である。』





 〜しかし、友好的な、心踊るものを秘めた広袤で、患者を招いて、患者の夢想生活という地図のない国への冒険の旅に誘うものでもありうる。この場合には、オクノフィリア的転移解釈などはすべて場違いであり、邪魔にしかならない。しかしまた、沈黙は、対象成立以前に個体環境間に存在した一次愛の調和的渾然体再建の試みでもありうる。この場合は解釈であろうと他の何であろうと干渉は一切禁忌である。患者にあれこれの要求を課して調和をすっかり損なう怖れがある。 最後の方向の思索は私の考える創造領域と組み合わせになっている。創造領域とは、構造化された外的対象が一切存在しない心的領域である。解釈を用いて注意を惹き付けようとして外的対象をこの領域に乱入させれば、必ず、自己の内部から何かを創造するという患者の能力を破壊する。 第五章で論じたが、この領域の対象はまだ構造を持たず、したがって、創造過程が対象を構造化するようになるまでには、何よりもまず、時間が必要である。必要な時間は短くてすむこともあるが、きわめて長時間が必要でも不思議ではない。長短いずれにせよ、この時間の長さは外からの働きかけで左右できない。患者が自分の無意識の中から創造を行う場合も必ず同一の事態であろう。これは分析者の通常の解釈が、この領域に退行した患者に到底承認不可能と感じられる理由の一つかも知れない。解釈とは全体的な“構造化”されたもので、創造領域のまだ構造化されていないカスミあるいは夢のような内容と相互作用すれば、ぶちこわされるか、不自然かつ過早の構造化を惹起しかねない対象や思考である。 以上述べた状態は内容が大幅に相違するが、自由連想の代わりに、“アクテング・アウト”を行う。あるいは、相起の代わりにそれを反復することさえあるかも知れない。また、書き落としてはならないことだが、沈黙患者は、精神分析の基本原則を守れる状態をめざして前進せず、その代わりに何か原始的な行動に退行してゆくと記述できそうな状態にいても不思議ではない。〜

 したがって、基底欠損領域あるいは創造領域に退行している患者に大体いつでも有用な技法は、私の経験では、解釈をもって強引な介入を試みないで当面寛大に退行に耐えることである。その時間は数分間のこともあり、一回の面接の相当部分を占めることもある。すでに何度も触れたが、この時期においては、言葉はどの角度からみても信頼性のあるコミュニケーションの手段でなくなっている。患者の言葉はもはや自由連想をになう翼でなくなり、生命なき反復常同となり果て、一見言わんとするようにみえる意味をほんとうは意味していないので患者の言葉の背後にあるものを理解するのが分析者の仕事ではないか、という標準技法の助言はこの場合にもあてはまるが、ただ問題は、理解したところを退行患者にどうコミュニケートし返したらよいかである。私の考えついた答は、言語が信頼性を失った事実を留保なく受け入れて、当面患者を言語水準に無理に押し戻すのは全部あっさりあきらめることである。これは、患者のつくり出した題材を“構造化”する試みを全面的な放棄し、――どのみち“正しい”題材ではないのだ――今のありのままの状態に耐えることを意味する。したがって題材のほうは、患者が慣用言語が通じるエディプス水準に復帰し分析者に題材理解の鍵を与えられるようになるまでは、不整合な、ナンセンスな、バラバラのものであってよいとする。 換言すれば、分析者は退行を受容しなければならない。分析者と患者とが一種の相互体験として退行を寛容できる一種の環境あるいは雰囲気を分析者の方が醸成しなければならないという意味である。このことが必要不可欠なのは、この状態にあっては、外から圧力を加えれば、それはすべて、患者対象間の不平等関係を成長させて即座に退行できる状態を恒久的に維持しようという、いずれにせよ患者の中に存在する強い傾向を更に強化するからである。