うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、【子育てには原則的に二つの手段しかない。一つは子どもを愛情深く扱うことである。】


今日は、金曜日の散歩にあたったので、午前中は、芦が池に行きました。畔にある畑の一角にアンティチョークの畑があり、この時期から目で楽しませて頂いています。画題にしたいくらいにステキですね!


 晴天で、暑かったですが、気持ちよく歩けました!





 午後からは、自分的には久しぶりに、万場調整池に行きました!
名物?の長い滑り台の所に差し掛かったら、張り紙がしてありました。
 初めての施設で、何回か来て、愉しい思い出があったので少し淋しい気分になりました。



 途中、タイサンボクの花が咲いていて、香りも良かったです!

今日は、合計17,500歩歩きました。


 色々な仕事が湧いてきたので(笑)少し焦っていますが(笑)給与計算もその中に入りました!


 本は、早番の前に、ファミマで(笑)読みました!
早くフェレンツィにと思いながらも、バリントが深い所に導いてくれます。


 



子育てには原則的に二つの手段しかない。一つは子どもを愛情深く扱うことである。経済論的な観点で言えば、リビドーを負荷するということである。撫でる、揺する、抱きしめる、キスをする、膝に抱き上げるなどである。もう一つはある種の前駆快感への道を閉ざすことである。たとえば乳離れであり、おしゃぶりの禁止、清潔と規則正しさのためのしつけ、などである。教育は、ただでさえ子どものリビドーの不安定なバランスを二方向から同時に脅かす。すなわち興奮が今起こるように促しながら放出の機会を制限するのである。過度の負荷が生じた場合、子どもはバランスを取り戻すためには二つの方法を使う。まず一つは、子どもの自我が増大する興奮で圧倒された場合、パニック様の状態が発来し、それに続いて感情の爆発、身体の非協働的運動となって荷下ろしが行われる。もう一つに方法は、最大限の努力を払い、あらゆる力を動員して興奮に耐えようとすることである。はじめの方法は間代発作に近くは第二の方法は強直発作に近い。この二つの反応法はどちらも自我の原初的防衛形式であることは確かだが、後者の方が、アンナ・フロイトが最近の本ではじめて系統的にまとめたように、両方に根を持ちながらも、いわば心的上部構造となって、この二つのほぼ身体的な防衛法の上に乗っかるような形を持っていると私は思う。 教育は明らかに耐える法を優先する。教育は形のいかんを問わず感情の爆発を嫌悪する。子どもは時に行き過ぎの成功をする。子どもは実際すべてを我慢することを学ぶ。ただその代価として持続的硬直状態を支払う。何か刺激を受けると、子どもは(強直性)痙攣を高めてこれに答える。とくに刺激がまだまだ強くなることはないという保証がないときには、である。フェレンツィは、このような身体的防衛様式(特に持続的な筋緊張)にはじめて注意を促した人である。そのような痙攣準備状態にある人は、激しい抵抗下でようやく自由連想に身をゆだねることができる人、愛に身をゆだねることは絶対をできない人、快楽の味わいに心を開くということもまずできない。痙攣的な冷感症の女性が、オーガズムが生じようとする刹那に、オーガズムの代わりに、痙攣的に笑いあるいは泣かずにいられないのは、一種の抑圧されたものの回帰である。強直性痙攣を突き抜けて間代性の感情爆発が生じたわけである。最終快感の中にもこの二傾向が見られる。より心理的な間代性の解放を求める傾向性と、「耐えよう」、さらには「興奮をなお高めよう」とする、より心理的な、自我親和性な傾向性とである。ここまでくれば、この二つの傾向性が障害なしに共同して働くために必要な前提条件は一定の自我の強度である(それと一定の欲動の強度と)であることがわかる。おそらくこれは思春期の生物学的大転換があってはじめて達成されるのだろう。しかしそれから後でもなお、少なくともわれわれの文化においては、最終快感に気づくことは外傷的な作用を持つ。
前駆快感と最終快感の相違は、従来われわれが思い込んでいたよりもずっと深いところにまで達している。前駆快感機能は比較的単純でありたい生物体の原初的性質のように思われる。これに対して最終快感は系統発生的に新しく獲得されたもので、非常に複雑であり、各個人があらためて一から学ばねばならない。それはお互いに相反する二つの努力からなっている。両者の統合がオーガズムをもたらすが、オーガズムという芸術作品は、外傷的とすらいってもよい性的興奮に耐えられるかどうかにかかっている。私はここで、これらの観察所見をリビドー理論ないし自我心理学に組み込もうと試みたのである。