うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

【すなわち、愛の形には成熟したものと原初的なものの両方があるのに対して、不安は(そしてある程度は憎しみも)原初的な形でしか存在しない。】


 夜勤明け、ファミマでコーヒーを飲みながら本を少しだけ読んで帰ったら、ひーひー王子が、自転車置き場
で爆睡していて、近寄っても起きないので、自転車を別の所に停めました。(笑)
 夜勤時に働き過ぎたので(笑)今日は大人しく寝る事にしました。
親分の電話で覚醒しましたが(笑)時間を見たら、もう夕方でした(笑)こんなに寝たのは久し振りです!






 寝すぎて(笑)、ボーットしているので、いらんことは書かない方が良いので(笑)今日は大人しくしておきます。
 
第八章 愛と憎しみについて (一九五一年)     事態は間違いなく、愛−憎しみ−不安の順で推移している。不安から憎しみへと後戻りするなら、私の精神分析技法でたやすく起こすことができる。それに対して、次の段階である憎しみから愛への変化はずっとむつかしい。ここで問題がいくつか見えてくる。第一の問題は、ここでいわれている形の愛はほんとうに愛なのか、それとも全然別の何かなのか、ということである。私の患者は致命的であった友人の訪問の前にはその友人夫婦を“愛して”いたと言えるのだろうか。一見これはとるに足りない、素朴な机上の空論的同一化疑問のように見える。しかし、これ疑問を何らかの答えを与えようとすると、非常に重大な論争に巻き込まれないわけにはゆかないことを示したいと思う。私がいいたいのは、私の患者は自分の友人を確かに愛していたのだが、奇妙な、非常に原始的な仕方での愛であるということである。私以外の精神分析家たちには、この原初的関係について私と違った考えを持っている。私の見解を論じる前に、他の人たちの考え方をごく簡単に要約したいと思う。いや、そしてその前にまず、これは非常に重要な点だということを一つ言っておきたい。それは、この種の愛は成熟した愛というものといちじるしく異なるものだということである。ところが、私の患者が示した憎しみと不安のほうは、成熟しているともいえないが幼児的いや原初的だともいうことができない。この違いはどうも本質的なものだと私は考えたい。すなわち、愛の形には成熟したものと原初的なものの両方があるのに対して、不安は(そしてある程度は憎しみも)原初的な形でしか存在しない。
 原初的愛と成人の愛との違いの本性が何であるかを説明しようとする仮説はいろいろあるが、互いに敵対的であり相互排除的であると一般には見なされている。私はむしろ、このいくつかの文言は、人間関係の複雑な構造のそれぞれ一面に光を当てているもので、互いに補いあうもの、言葉を換えれば多重決定因子(overdetermining factors)であると考えたい。 ある仮説は、愛の幼児的形態における自我の弱さを強調している。この弱さのために、その人はある程度以上の欲求不満に耐えることができず、欲求不満に対してあらゆる種類の防衛機制を動員しなければならない。特に不安に対してである。しかし、この考えを受け入れた場合には、憎しみもまた防衛機制の一つと考えなければならないのだろうか。自我の弱さという考えに近い第二の考え方があり、これは現実吟味の未発達あるいは欠陥に力点を置くもので、そのために現実に在りうるものをはるかに越えた幼児的な希望と期待とが成人になっても残ってしまうというのである。