うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

岡倉天心先生と、萩荘さんと、ポール・スミスと、【もし、分析者が、病や事故や襲撃(あるいは逆転移精神病)を生き抜くことをできなかったら、そのときは、被分析者が、回復は、あり得なくなってしまい、よくても元の木阿弥といったところです。】

ka-gu2018-07-26





今日は、用事もなかったので、とりあえず、心の師匠である、天心先生のところに行きもまだまだ至らぬ自分の報告に、勝手に(笑)行って来ました。






自分の作品を展示してもらえる、ギャラリーも探したかったのですが、体力的にも、時間的にも厳しく、今回は諦めました。
写真の、萩荘さんは、宿泊もできそうだったので、今度、泊めて頂きながら、じっくりお話ができたらと、思いました。
 ギャラリーの裏側が、墓地と言うのも、自分の作品にぴったりですね!




東京に来たら、必ず行く(商品は高くて買えませんが……)ポール・スミスの六本木店にも行きました。いつも、商品には目もくれず(笑)、ギャラリーに一直線なので、店員さんも、ホッタラカシにして下さるので、まあ、服装がチープなので相手してもらえないですね(笑)、助かります。


 資生堂のギャラリーにも、必ず行くのですが、こちらも今回は諦めました。


 移動の電車の中で、丸田先生の本を読み終えました。


 

 ギターも、20000円のギター🎸を持って来て、ロバート・ジョンソとギャロッピングを弾きましたし、これから弾いてから寝ます。
(  ̄ー ̄)ノ





 アップは、まだリトル先生です。
 自分たちも、現場で考えないといけないことは、その人にぴったり合った支援方法だと思われますので、下記に記述していることを、肝に銘じてやって行きたいと改めて思いました。








 〜分析者は、同質の不安、つまり、迫り来る破滅、アイデンティティを失う不安、に対する防衛を、自分自身のためにも患者のためにも患者放棄できねばなりません。と同時に、自身のアイデンティティはきっちりと維持され、現実感覚は健全であり、現実と妄想という極端な二つの水準、が見えていなくてはなりません。分析者は、我が児と顔突き合わせている母親、の立場にいるわけです、しかし彼と患者とは、実のところ、そんな状況にいるわけではないのです。このことは、「ほど良い母親」(Winnicott 1952b)と同質であることを分析者に要請します。すなわち、幼児の水準で幼児に共感し(Winnicott 160a)しかも幼児を一個の人格と見なす能力をです。「職業的姿勢」に依ることを止め、鏡の像とははっきり別のものとして、幼児との「直接の関係」(Winnicott 1954b)を許容し、さらに、ここでは性はなんの意味も持たない、と銘記している点をです。精神的には、幼児と合体し、幼児といったいであるとの妄想を許容し、原初の心的外傷が再現された際の幼児の憎しみに対し、報復することなく耐え(Winnicott 1947,1960c)、そして、自分の側にいろいろな感情が湧いてきたら、それを我慢することをです。
 この段階では、分析者の「万遍なく漂う注意」(Freud 1913)と「原初における母性の専心」とWinnicottが記述した(1956a)ものとは、とても近いのだと、わたくしは思っています。恐らく、二つは、基盤では同じもので、Freudの述べたもののほうが、程度が浅いのでしょう。なぜなら、原初における母性の専心は、明らかに、一過性に退行した、スキゾイド的な、母親の病の要素、を意味しているからです。
 この治療的退行の道程には、両者にとって多くの、困難が横たわっています。時間が絶対に必要ですし、身体病とか外部からの要請とか仕事とかの邪魔、が入らないこともなくそしてなにより、不安それ自体に由来する内的抵抗、が二人のどちらにもあります。ですから、管理が必要です。分析の場のセッティングは、身体の安らぎと暖かさと静けさと外界からの邪魔の排除とをもたらします。受容し励まし応答してくれる分析者の態度から、情緒面での安らぎ、も得られます。そうした分析者の態度は、時として積極的ですが、おおむねは、中立的なものです。障害のひどい患者の場合は、絶対的なニーズ(Winnicott 1949a,b)というものがあり、それは、欲求とは異なるのです。ぴたっと応じられたときに、解釈と同質の効果が生じるのです、ちょうど、母親が幼児にむけて出す「合図」のように。
現実には、患者は幼児ではないので、分析者のズレに対して、大人のやり方で、大人の肉体で反応するのでした危険が生じます。被分析者にとっては、自己のニーズがびたっと応じてもらえなかった時に、危機が生じます。防衛が再建され、病へあるいは健康への、逃避の危機が。あるいは自殺の危機が生じます。自殺は、患者が望むなら、選択の自由を持てるべきです。その方法で、分析を破壊するため〜自由を。分析者の側には、襲撃される現実の危険があります。秒因となっている心的外傷にまつわる怒り、が会報されたさいに、あるいは、緊張が緩んで、分析者が、一つのミスを犯して、そのミスを有効に活かせなかったときにです。それは、生死にかかわる事態です、身体的のあるいは精神的が。もし、分析者が、病や事故や襲撃(あるいは逆転移精神病)を生き抜くことをできなかったら、そのときは、被分析者が、回復は、あり得なくなってしまい、よくても元の木阿弥といったところです。