うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

日向ぼっこと、ビオンのK、no K,マイナスKと、【幼児は現実感覚をもった正常な心を発達させるために、経験から学ばなければならない。】


 今朝は寒かったので、ねこさんが日向ぼっこしていました(笑)
風がないと暖かいですが、外に出ると寒かったですね。ゴミ出しに行った時に、交通当番の方も、寒いねと言っていました。



 今日は休みでしたが、書類を作っていたり、碧南から副理事長が来てくれたので、お昼をご一緒させて頂きました。
本は、事務所に行った帰りに30分くらい、ファミマで読みました。
 ビオンのKとか、no Kとか、マイナスKとかが、まだ身についていないので、自分で打ち込んだ物をプリントアウトして、分からなくなったらそれを見ながら今日は読みました(笑)下記は、本当に大事なことが書いてあります。



〜ビオンは2つの中核的な主張を抱いていた。幼児は現実感覚をもった正常な心を発達させるために、経験から学ばなければならない。すなわち、その対象を知ろうとするためには、幼児はその対象と情緒体験を使わねばならない。このことは、それらに気がつき、査定し、それらの性質を理解し、覚えておくこと、つまり、考えることを意味している。同様に、幼児は自分を世話してくれている対象から愛され、知られることを必要としている。自分の情緒生活についての知識についてビオンは次のように書いている;「その個人にとっては現実感覚が重要であるのだが、それは食べ物、飲物、空気、老廃物の排泄が重要であることに通じる。適切に食べることや飲むことや呼吸することの失敗は、生命そのものに悲惨な結果をもたらす。情緒体験を使うことの失敗は、人格の発達に同様な惨状をもたらす;これらの惨状の中に、人格の死として描くことができる精神病性の崩壊を私は含めている」(経験から学ぶ、p,36)。
 分析の体験から学ぶ能力に患者が不安を感じるときがしばしばある。このことは彼らの早期対象との体験から学ばなかったことへの不安の転移的な出現である。彼らは悲観的に感じ、分析家は忘れていて楽観的であると不安がる。彼らの関係の真の記録を考えたり保ったりができないことを、彼らは意識的無意識的に知っている。自分を恐れているかぎりにおいては、Kが倒錯的にねじ曲げられないか、あるいはマイナスKへと剥ぎ取られてしまわないか、もしくは知覚や記憶への攻撃によってすっかり失われてしまいさえしないかと彼らは恐れる――ここでは自分自身の羨望こそ彼らは最も恐れている。またその羨望が情報を与えずにおいたりもする。知識が自分にとってのいのちの綱であるように、分析家のいのちの綱であると患者は知っている。セッションでの出来事や生活での出来事についての情報を与えないことで、彼らは分析家を役に立たなくできる。Kの拒絶が強烈な羨望性の憎しみからしばしば生じてくるように、その逆に、Kを提供することは愛情や感謝を表している。 患者は同様に、それらを理解する分析家の能力に不安を感じる。深いところでこれは、ビオンの言う、分析家の、もの想う”能力についての不安である。情緒的な包み込みという実際のことに基づく理解を患者は望む。分析家が、患者の思索の主要な様式である投影同一化によるコミュニケーションにオープンであることを望む。この分析家は原初的な投影状態を受け取り、それらが何なのかを知ることができるだろうか。子どもたちも確かに分析家のもの想う能力を調べるし、分析家が考え、気づき、覚えておき、真実と嘘を見分け、情緒的に――言語的、機械的、書物からとは反対に――理解することができるかどうかを試す目的で素材を持ち込む。なかでも、内的対象群がKできない子どもたちは、治療者についての深い不信を抱いているだろう。