うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【この融合による緊張に耐えることへのごほうびがある。それは周期的に幸せなひとときを、真の幼児段階に退行してすごせることである。】


 今日の日中は、賑やかでした。皆さんで蔵王山の展望台に登ったり(かおちゃんは慣れている様で、エレベーターのボタンを走って押しに行ってくれました)、


 滝頭公園に散歩に行ったり、

 ジャスコに買い物に行ったり、お天気が良かったので、なるべく外にいるようにしました。






 本は、早番さんがいなかったので、早めに出て得意のファミマで読みました。当たり前ですが(笑)フェレンツィも勉強になっています。



 フロイトが言う、イドのところに自我を!が、自我を本当に強くすることなのでしょうか?強くと言うより、自分でコントロールできると言うことでしょうか?

 このしがない世の中で(古い言い方w)、まっとうに生きていけるだけでも、自分的には強い自我と感じてしまいます。(笑)それだけ自分の自我が弱いと言う事なのでしょうか?



 明日は、総会があるので、早めに寝ます。(笑)

 〜周知のように、弱い自我には次の三つの危険が少なくない。第一は精神病である。それは急性不安状態のように一過性のものもあり、妄想症や分裂病性幻覚のように慢性的なものもある。第二は酩酊である。急性アルコール中毒もあり、嗜癖のような慢性状態もある。第三は「惚れ込み」である。あらゆる時代の詩人たちはこの三つが密接な近縁関係にあることを知っていて、しばしば愛のことを狂気とか酩酊と言っているではないか。この三つの類似性には心理学的根拠があって、それは自我構造の崩壊の危機である。強靭な自我だけが、この危機に泰然として直面し、そういうものによって傷つかず、かえって生命を与えられ、生き生きと蘇ってこの危機を通り抜けられると昂然と確信しておれるのである。 以上を要約するならば、「性器愛」は、人間に関する限りは実際は間違った名前である。言葉のほんとうの意味での性器愛は動物にしか存在しない。動物は迂回することなくまっすぐに幼児的行動様式から成熟した性器性行動に発展し、そして死ぬのである。幼形成熟胎児である人間は全面的な成熟には達することがない。人間は、その解剖学的構造からも、年長者と格が上の者に対する情緒感情のあり方からも一個の胎児のままであるやさしさは、愛情生活と異なるところはない。われわれが「性器愛」とか言っているものは、非常にかけ離れた要素をある形で融合させたもの、すなわち性器的満足に前性器的やさしさを融合させたものである。この融合の表現が性器的同一化である。この融合による緊張に耐えることへのごほうびがある。それは周期的に幸せなひとときを、真の幼児段階に退行してすごせることである。現実吟味がまだないところである。それは、小宇宙と大宇宙の完全な一体化を短期間ながら取り戻すことである。