うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

100円の傘のまとめ買いと、【私の考えでは、憎しみは原初的対象愛(つまり古型の依存的愛)の最後の残り滓であり、その否認であり、それに対する防衛である。】


 今日は、岡崎の法務局に行って来ましたが、親分に予約を頼んだ自分がバカでした......。
岡崎と言って、岡崎に行くなら、法務局の近くの古道具店で、100円の傘をまとめて買うとも言っていたのに、実際予約したのは、豊橋の法務局でした.........。
 ふつう考えれば、予約時間近くに岡崎にいたら、豊橋まで行ける筈がない.......。
まあ、田原から来たのと、偶然その時間だけが空いていたので、話はできましたが.....。
 豊橋では、数年前から登記ができなくなっているので、それも親分は知っているはずですが.....。
取り敢えず、古道具屋さんで、直ぐになくなる(利用者さんが勝手に持って行ってしまうので....)傘をまとめて買ってきました(笑)






 今日は、早番がいなかったので(利用者さんが沢山いるにも関わらず)、2時間だけ入る前に、早めに出て、ファミマで(笑)読みました。今日読んだ箇所のアップをしたかったのですが、まだまだ貯金があり、アップしたい箇所があるので、続きにしました。まあ、今日の夜勤者は(明けですが)実力者なので、ほとんど仕事が終わっていたので、皆さんと一緒に過ごしただけですが(笑)



 下記は、人の悪口や不満を口に出している人が、幼く見える(自分も含めてw)原因のように感じました。

『私の考えでは、憎しみは原初的対象愛(つまり古型の依存的愛)の最後の残り滓であり、その否認であり、それに対する防衛である。』


 下記は、自分は人を赦せないことが多いので、健康ではないように思えました....。
『健康な人の愛とは、大体において一定で、安定しており移り気がなく、大きく揺らぐことはまずないはずのものである。ちょっとやそっとの欲求不満では愛はほとんど変わらないはずである。いやびくともしないのでもあろう。真の愛は、理解し、許し、耐える。』

 下記は、ちょっとほっと(笑)しました。
『個人は成熟すればするほど、原初的形態の対象愛変化退行を防ぐ防壁を築く必要がなくなり、それだけ憎しみへの欲求も少なくなる。しかし、われわれ全員がこの高い水準に達することができるわけではない。』

 明日は、本当の早番なので、今日も早めに寝ます。
明日から6月ですね!



 われわれの理論は生の欲動と、それに死の欲動とが原初からの二大欲動であるという仮定にもとづいているが、それからすれば愛と憎しみは同等の地位にあることになるのではあるまいか。それだけでなく、われわれの臨床経験もある意味でこの見解を裏書きするように思われる。ほんとうに健康な人間は愛することも憎むことも両方ともできなければならないし、どちらかの機能が弱ければ、その人の健康はどこか不安定である。
 〜ここまでの検討では、愛と憎しみが一種対等の地位にあることがわかったが、ここまでの並行関係がどこまで妥当かも考えてみなければならない。私の知るところでは、もっと目を近づけてみると重要な差違が浮かび上がってくるのである。健康な人の愛とは、大体において一定で、安定しており移り気がなく、大きく揺らぐことはまずないはずのものである。ちょっとやそっとの欲求不満では愛はほとんど変わらないはずである。いやびくともしないのでもあろう。真の愛は、理解し、許し、耐える。ところが、健康な人の憎しみはふだかは憎む潜在能力があるというにすぎない。あるいは偶然をきっかけにして突発するといおうか、真に重大な憎む程の理由があれば、強い感情、さらには激烈きわまる感情が発生して持続することもあるけれども、どうも突発的な怒りのようになることのほうが多い。愛とは逆に、状況が好転すれば、憎しみは簡単にまたたく間に蒸発するだろう。なぜか、憎しみと健康とは短期間しか共存できないのに対して愛と健康とは長期にわたって切っても切れない盟友の姿をとるようだ。 この重要な差違をどう説明したらよいだろうか。察していただきたいが、私は一つの解釈を提示したいが、これが最終的なものではないことも、もっとも深いものもないことも承知しているが、ここで問題にしている憎しみの特徴の多くを説明できるものではなかろうか。私の考えでは、憎しみは原初的対象愛(つまり古型の依存的愛)の最後の残り滓であり、その否認であり、それに対する防衛である。 これはこういうことである。つまりわれわれは自分にとって非常に大切な人なのに自分を愛してくれず、その人の愛情を得ようと最善の努力をしたにもかかわらずどうしても協力的パートナーとなってくれなかった人を憎むのである。こういう経験をすると誰しもが過去のあらゆる苦痛や苦悩や不安を掻き立てられるので、われわれはこの仕打ちに対して憎しみという防壁を張って、その人を求める気持ちとその人への依存を否定して身を守る。これはある意味では、その人たちを重要な人なのだが悪人であり、自分はもはや重要人物全員の愛に依存していないのであってはもちろんそのうち悪い人へのあらゆるなどなくてもやっていけるのだという自信が持てるよと自分をはげましているのである。 愛は容易に憎しみに変わりうるが、憎しみから愛に戻るのはたいへん困難である。このことはこの理論で説明がつくだろう。愛から憎しみへの変化は主観的な、精神内界の過程である。対象そのものは何の役割を演じる必要もなく、対象はその過程に気づかないままでいることもしばしばである。ところが、憎しみから愛への変化は、精神内界だけの過程では足りず、それが加えてです対象その愛してくれるパートナーに変えることが可能なときにだけ起こるものである。すなわち外的現実にも大きな変化を必要とするのである。

 個人は成熟すればするほど、原初的形態の対象愛変化退行を防ぐ防壁を築く必要がなくなり、それだけ憎しみへの欲求も少なくなる。しかし、われわれ全員がこの高い水準に達することができるわけではない。だから、たいていの人には多少は憎しみの必要性が残っているのである。完全な成熟というこの理想的水準が、「それからずっと幸せに暮らしましたとさ」というおとぎ話のいつもながらの結末のほんとうの意味なのであろう(“いうことなし”のだと状態に達したから――訳者)。そういう性段階に到達した人なら、どんな形での憎しみの助けを借りることなく、あらゆる愛の問題を解決できると考えられそうである。