うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【母親は子どもの意に反することをしたがることは一切ゆるされない。これは父親にはあてはまらない(他人による教育のよほうが効果が大きいという問題にも同じ説明があてはまる)。】

 今日も日中は賑やかでしたが、自分は午後からの遅番だったので、途中からだったので流れが良く分からず、言われたままの支援でした。
昼食が終わって、皆さんそれぞれのアクティビティーに入りましたが、自分は散歩と買い物班になり、ジャスコに遠回りで行って、遠回りして帰って来ました。
 皆さんどこに何があるのかが分かっておられ、セルフレジも上手になられています。
帰りは一緒に歌を大きな声で歌いながら帰って来ました!

 夕方、入浴介助まで時間が空いたので、うたたねのギターの弦を張り替えました。親分が2,000円で買ってきたモーリスですが、新しいマーチン弦だと、そこそこ良い音がしました。ただ、フィンガリングがスムーズにいかないので、弾きづらいですね。音の反響が良さそうな、脱衣場で弾きました(介助着に着替えたついでにw)。







 本は、早めに出てファミマでコーヒーを読みながら読みましたが、フェレンッイに入りました。難しいですが(笑)頑張って読ませて頂きます。
長文が多かったので、貯金の中でも、比較的短い箇所です。自分は、この辺りから、バリントの言う、一次愛と言うものが、少しだけ分かったかな?という感じになりました。

  〜ぼつぼつこの問題を離れて母の愛に移りたいのだが、その前にちょっと、父親に対する愛についての私なりの感想に戻りたいと思う。なるほど家長peter familiasというものは、母性的特徴をたくさん帯びており、そのために子どもはいろいろな形で母親と同じような扱いをするけれども、母子を結んでいるあの古型の絆はないのである。子どもが父親を知るための学び方は現実原則に支配されたものである。たとえば、子どもがふつう母親よりも父親に従順であるといった一般にみられる観察所見は、父親のほうが母親より厳格であることが多いという事実では説明しつくせない。子どもが父親に対して現実的に対応するのは自然的、根源的利害共同体という古型の基礎が父子関係には存在しないからである。母親は子どもの意に反することをしたがることは一切ゆるされない。これは父親にはあてはまらない(他人による教育のよほうが効果が大きいという問題にも同じ説明があてはまる)。民話もこのことを裏書きしているようである。意地悪な母親は必ず継母だが、意地悪な父親は継父とは限らない。これは、息子であろうが娘であろうがあてはまることである(ーちなみにこれは、先に述べた愛の形の古型をさらに証明してくれる。この愛は(子どもが)男女のいずれであっても同様な形で現れる。したがって、おそらくエディプス期以前に発するものであろう)。だから、母親への愛は元来は現実感覚のない愛であるが、父親への愛も憎しみも、エディプス状況をも含めて、現実に即したものなのである。