うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

安い玉露と、人間とギターのメンテナンスと、【人間の情緒生活において現実感覚の支配が生まれるようになるのはこの時である。】


 今日は、休みでしたが、早番がいなかったので、1時間くらい忙しい時間に入って、自分の受診に行きました。
安もんの、玉露を淹れましたが、二煎目からは、毎日飲んでいる緑茶と同じ味がします......。
 きっと、味の素みたいな物を入れると(笑)高い玉露風味が味わえるかも(笑)です。以前にも書きましたね(笑)


 受診が終わってから、浜松のギター職人さんに弦高が二倍くらいになってしまったギターの調整をお願いしてきました。
弾いていて、指が異常に痛くなるので(笑)良く見たら、弦高が高くなりすぎていました。高価なものではありませんが、自分にとっては大事なギターなので、お願いしてきました。
 良い職人さんは(自分は先生と言われたい人より、職人と呼ばれている方のほうが、ずっと素敵な仕事をされているので、職人と言う言葉は、自分の中では尊敬に値する意味があります)依頼が多く、取り掛かるのは7〜8月になるそうです。弾きやすくなるなら、それくらいは待てますし、諦めていたエレキも、完璧に直してくれましたので、今回も期待しています。
 今日は、人間とギターのメンテナンスの日でした(笑)。




 本は、受診待ちで読んだくらいですが、フェレンツィも凄いですね.......。積極技法というのは、行動療法的な感じもします。徹底操作自身が、そんな感じが、自分にはします。バリントの二冊目は、そろそろ切り上げて、フェレンツィに入った方が良さそうですね。でも、バリントの2冊は本当に勉強にも、参考にもなりました。

 愛着障がいを考える上で、一次愛や一次的対象というのを元に考えないと、ただ単に幼少期に愛情をもらって居ないから、そうなる的な発想しか出てこないのかも知れませんね。個人的には、大人になっても遅くないように思いますので、自分たちが見させて頂いている、障がいをお持ちの方々に、下記を頭に入れながら接して行くというのは、意味のある事だと思います。



 母親にとっての子どもの性的意義がなくなるのは子どもが性的成熟に達する時期すなわち成人の姿で母親の前に性的パートナーとして現れることもできるであろう時期よりもずっと前である。母親への本能的愛着に続いて母親による本能的拒絶の時期が来る。このことから母の愛と母への愛の間には、多くの共通点があるにもかかわらず、両者には本質的な差異があり、それが何であるかが明らかになる。母親はかけがえのない唯一人の人であるが、子どもは別の子どもで代用できる。すべての転移神経症においてこの葛藤の反復をわれわれは経験している。どの患者も分析のどこかの時点で分析者が(絶対ではないが)かけがえのない人であることを思って心配になる。ところが分析者の方は患者が予約を断ったために空いた時間をくつろいで過ごすではないか。ほんとうにくつろいでなくて、(患者が予約を断ったのはなぜだろうと気になって)その振りをしていることもあるが――。母親からの分離とは、相互性に基づく原初的愛着を解消させるという意味ならば、母親が私的利害をもつ別個の存在であるという事実を受け入れることを意味している。そういう母親を憎悪してみても何の解決にもならない。憎悪とは愛着を温存しつつ、それにマイナスの符号をつけることだからである。人は母が昔の母でなくなったという理由で母親を憎むのだ(分析終了後の分析者に対する憎悪は転移が解消せずに残存している証拠であることは、われわれの分析の現場においては昔から知られている)。 まとめてみよう。幼児期を越えて成長した子どもは、母親にとってはあまり愉快な存在ではなくなる。(こちらはまだ本能的母性面で考えている)。それにもかかわらず子どもは母親につきまとう。しかも素朴エゴイズム以外の愛の形を知らない。ところが素朴エゴイズムは、その基礎であった相互性がなくなった今、もはや維持できない。ここで子どもはその愛を必要とする人々の願いに自分のほうを合わせるという課題に直面する。人間の情緒生活において現実感覚の支配が生まれるようになるのはこの時である。