うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

チョコレートと、流しの?たくちゃんと【現代社会(「今どき」)の精神分析・木部則雄(精神分析から見た成人の自閉スペクトラムより)】


朝の散歩時、頂いて来て、投げ入れました。
なにか嫌な事があったり、自信をなくしたりした時に、投げ入れることが多い気がしています。(笑)
 先程、灯油を入れに行く途中、ラジオでジェームスさんが吠えていました。気持ちは痛い程分かりますが、現代社会はそれを良しとしないんですね?自分は同感ですが.....。
 下記にアップさせて頂いた箇所にも関係があるのでは?と書いてみました。



 昨日、カーグの時に
ゆうこちゃんから、チョコレートを頂きました。
お断りしましたが、お母さんがお世話になっているのでと.....。月に一回カーグとバンドで一緒にやらせて頂きだけなので恐縮しています。ホテルオークラと書かれていました....。
 中井久夫先生は、患者さんから物を頂くときに、もらうのはいいのですが、自分が物をもらうとその患者さんは、病気の回復が遅れますよと言っていること思い出しました......。
 最初に働かせて頂いた施設で、20個くらいチョコレートを頂き、お返しに数万円かかった苦い思い出も.......。もらえるのは嬉しいのですが....。そういえば中学生の時に、バレンタインデーの日に、学校の机の中にティッシュに包んだ自家製らしきチョコレートがあって、捨てる事も出来ずに家に持ち帰り、ちょうど青酸チョコレート事件があった時代だったので、母親に相談したら、あんたがいらんかったらもらうはわって、直ぐに口の中に.......。女は強い!と初めて思った瞬間でした(笑)校則が厳しい時代だったので、カモフラージュでティッシュにされたのでしょうか?せめて一筆あればよかったですね(笑)良いおもいでです。



 これまた昨日のカーグですが、ギターの弦を張り替えていたら、たくちゃんがギターを貸してくれって言って来たので、張ってからお貸ししました。
 カーグの間中、ボロンボロンと弾きながら、優しい声で唄って?くれていたので、よいBGMの中、みなさん絵を描かれていました。外は寒かったですが、室内はほど良い暖房と、たくちゃんの歌で、春の様な感じでした!


アップは昨日マックで読んだ箇所です。
下記の赤字部分は、本当にそうですね.....。しかし、それが現実なので、現実にキチンと向き合って支援の現場もやって行かねばなりません。
 でも自己否定できない人々と話すのは本当にしんどいです。利用者さんに対しては何ともないのですが.運営者も生身の人間だと、少しでも見て頂けると助かります(笑)
新型鬱病は、自分の好きな事はできて、嫌な事はできないって........これ病気でしょうか?
気分障害スペクトラムと言った方が納得がいきますが.....。
 

現代社会では沈黙はあたかも愚かな鉄くずであり、すべての理不尽な主張ですら金とされるかのような時代である。こうなると、権威や習慣、慣習などは過去の残滓であり、全く顧みられることはなくなる。たとえば、学校の教師は親や保護者に過剰な気遣いをし、医者も訴訟を恐れ、政治家や公務員にも全く権威がなくなった。すべての人はプライドを失い、有用なはずのインターネットによる情報の氾濫が人を惑わせている。これは言うなれば、抑圧の文化に対する発散の文化である。現代人の行動原理はイド中心であり、誰が悪いのかという他罰主義で決して自責的ではない。こうした現代人のメンタリティの中心はクラインの原始的防衛機制の中心である投影同一化と否認であり、抑圧は表舞台から消えてしまったように思える。その結果、フロイトがモデルとしたこころとは異なり、今まで抑圧によって豊富だった無意識も、発散の結果として心的世界はとても枯渇してしまった印象がある。さらに、過去のメンタリティの中心であった修復、罪悪感は減り、妄想分裂ポジションの被害的な罪悪感のみになってきたかのようである。』


下記を読んでいると、自分がなぜ、クラインやその系統、H,Sサリヴァンの本に飛びつくのか?理解できた気もしました。
 もう少ししたら夜勤です。少し事務仕事をやってから出勤します。


第2章 自閉スペクトラム症のこころの発達―パーソナリティ障害との架け橋 
2,現代社会(「今どき」)の精神分析  木部則雄
 私の精神科臨床での印象であるが、2005年以後の頃から、子どもだけでなく大人も含めて人々のこころの質に大きな変化が生じているのではないだろうかと感じるようになってきた。これは自著『こどもの精神分析』(2006)の続編として『こどもの精神分析Ⅱ』(2012)をまとめる大きな動機になった。『こどもの精神分析』はエディプス葛藤という精神分析の中核概念によって、子どもの精神分析心理療法が可能であることが記述されている。しかし、『こどもの精神分析Ⅱ』はエディプス葛藤も早期エディプス状況もメインテーマにならない時代となり、精神分析はどのようにこの事態を理解し、臨床実践に役立たせることができるかということをテーマとしてきじゅつした。
 「今どき」の精神分析とは、エディプス葛藤も早期エディプス状況も精神分析の重要なテーマとならない時代での精神分析という意味である。そして、「今どき」の精神分析とはどの@ようなものであるか、その見解を論じたい。子どもの精神科、心理臨床の現場では、発達障害や保護者の養育不備を含む虐待といった問題が増えた。また、思春期では若者の引きこもりなどによる社会的不適応、そして大人はいわゆる新型鬱病という現代的な鬱病発達障害が表舞台に立ち、神経症、パーソネリティ障害などは脇役に追いやられた。
 今やこうしたトピックスと精神分析、そして現代社会がどのように関係しているのかということを考えない限り、現代社会において精神分析を生かすことが困難であろう。精神分析は19世紀末、フロイトの住むウィーンの富も教養もあるユダヤ人社会の中で発展した。フロイトが当初「抑圧」のみを防衛と考え、この徹底作業によって神経症は治癒に至ると考えたことが精神分析の基本的な姿勢である。当時のフロイトが相手にしたウィーンのリンク内のユダヤ人の上流社会そのものの常識として、権威、抑圧された性、常識、慣習といったものが多く存在した。日常的な言い回しをすれば、抑圧は我慢とか忍耐といったことである。また、エディプス・コンプレックスはある意味、封建制度の枠組みの中でより意味のある概念であったと考えられる。つまり、封建制の時代では身分は固定化し、親と同じ仕事に就くことが宿命であった。エディプスも父親と同じ仕事に就かなければいけなかったゆえの悲劇である。ここには父親との息子の葛藤や、勝者敗者といった現実が存在している。息子は常に父親の能力、時に卓越した技術や芸から圧迫され、それを追い抜くことが使命となっていたことは、エディプスの構図として分かり易い。そこでは忍耐、我慢が必要であり、抑圧が重要な機制となる。抑圧の機制が働けば働くだけ、意識と無意識の境界が明確に形成されることになる。その結果、抑圧された願望や欲動は無意識を豊かにし、禁忌が厳格であれば罪悪感もより生じることになる。フロイト精神分析の背景には、こうした社会が存在していた。
 この時代に比すと、現代社会は街に物が溢れ、物やお金に過度な価値が与えられ、職業や人生における一定の価値観が崩壊している。過去の我慢や忍耐は愚行であり、いかに愚かであっても自己表現や自己主張が重要なことと見なされるようになった。つまり、現代社会では沈黙はあたかも愚かな鉄くずであり、すべての理不尽な主張ですら金とされるかのような時代である。こうなると、権威や習慣、慣習などは過去の残滓であり、全く顧みられることはなくなる。たとえば、学校の教師は親や保護者に過剰な気遣いをし、医者も訴訟を恐れ、政治家や公務員にも全く権威がなくなった。すべての人はプライドを失い、有用なはずのインターネットによる情報の氾濫が人を惑わせている。これは言うなれば、抑圧の文化に対する発散の文化である。現代人の行動原理はイド中心であり、誰が悪いのかという他罰主義で決して自責的ではない。こうした現代人のメンタリティの中心はクラインの原始的防衛機制の中心である投影同一化と否認であり、抑圧は表舞台から消えてしまったように思える。その結果、フロイトがモデルとしたこころとは異なり、今まで抑圧によって豊富だった無意識も、発散の結果として心的世界はとても枯渇してしまった印象がある。さらに、過去のメンタリティの中心であった修復、罪悪感は減り、妄想分裂ポジションの被害的な罪悪感のみになってきたかのようである。空想と現実は混在するようになり、バーチャル・リアリティの世界が現実味を持ち始めていることは周知のことである。現代人のこころを目の当たりにすると、抑圧という機制が正常に機能しなくなりつつある現状においては、投影同一化と否認を中心とする社会となり、それ以上に原始的な病態への精神分析について考えなければならなくなったように思える。例えば、コンテイナーなどに代表されるこころの最早期に関わることがテーマになっている。「今どき」の精神分析にはクライン派の臨床実践がより重要なものとなり、現代人のこころの理解に大きな貢献を為せるであろう。