うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、【そして、母親がどの程度この利害の一致を実際に感じているかが、母親の良し悪しを見分ける世間公認の尺度である。】




 今日の散歩は、朝は初立池を1.5周しました。
花ショウブの幟が至る所にあったので、混雑しているのかな?と思っていきましたが、全然人がいませんでした。
 朝から暑かったですが、頑張って歩きました!
 八ツ橋っぽい所を歩いたので、伊勢物語の第九段『東下り』を思い出してしまいました。
先日、名古屋でアレクサンダー・テクニークを指導頂いている先生が、名古屋から京都へ移住されたので、葵祭に行った話をされていたのも、心の片隅にあったのかも知れませんね。




 午後からは、芦が池に行きました。暑かったですが、午前中に慣れたので(笑)
ゆっくり歩きました。全部で13,000歩位でした。10,000歩を超すと、ほど良い疲れが心身の疲れを癒してくれます。

 沢山水分補給もしました!汗をかいた後のシャワーも気持ちが良さそうでした。
自分は今からシャワーを浴びます(笑)


 本は早番だったので、早めの5時に出て、ファミマで読みました。後、一章ですが、アップはまだ、第六章です。
バリントの奥様だったでしょうか?女性の分析家や精神療法家の本の方が分かり易くて、読みやすいですね。内容もしっかりしている気もします。
クライン然り、アルバレズ然り、タスティン然り、リトル然り(まだまだ居られますが....)、本当に凄いですね!




 都市部から離れるにしたがって、下記の様な、甘えの構造的な母子関係が強い気がします。
決して、子どもだけが悪いとも思えませんし、下手をしたら、二人精神病的な関係になっておられる方も居られます。
 いくら母親でも、私的利害はありますし、母親ばかりが犠牲的なことになっていても、周囲がその母親を助けたりしない場面も良く見ます。
夫婦関係でもそのような関係を見る事も最近ありました。
 障がいをお持ちの方々の支援もそうですが、けじめをつけてあげないと、何をどこまでやっていいのか?分かっていないし、また、ビッグの言う第二の皮膚をまとってしまっていて、その言葉に対しての答え方は、マニュアルにしたら完全に正解なのでしょうが、意味や内容が全然理解できていない場合が沢山あります。
 これだけ、あれだけ言ったのに治らないとよく耳にしますが、基底欠損水準にあるとしたなら、全てにおいて輪郭がはっきりしていないので、その言葉がそのままストレートにその方の心に届くはずもありません。かといって、エディプス水準にはなれないので、どうやったらエディプス水準に少しでも近づけるか?を考えて行くのが自分たちの仕事ではないだろうかと、今日も感じてしまいました。




第六章 母への愛と母の愛 (アリス・バリント著)(一九三九年)1 〜自己愛の概念は、この型の愛の確固とした対象指向性のゆえに、また受身的対象愛(愛されたいという願望)の概念はその活動性のために、いずれも十分正しいとは言えない(この部分の英語版ーー対象愛の概念はもっと不満足なものである。特にこの形の愛が本質的に能動的な性質を持っているからである)。いちばん近いのはエゴイズムの概念である。実際、それは古型のエゴイスト的な愛し方であって、本来は特異的に母親のみに妥当する愛し方である。その主な特徴は愛の対象にも私的利害があるという現実感覚が完全に欠けているということである。私は、このエゴイズムを、実際には現実感覚の欠如の結果なのだから、対象の私的利害を意識的に無視する場合と区別して「素朴エゴイズム」と呼びたい。 この愛、特異的に母親のみに妥当する愛の姿が特に明瞭に現れるのは、私の思うところ、転移現象という全くどこにでもみられる現象にある。転移現象というものはいずれの場合も年齢・性別・病いの感覚を問わず、また教員分析を受けている人すなわち事実上健康な人々にも現れるものである。私は、転移の取り扱いを論じた論文で、この転移現象のことを「パラノイア的に過敏でありながら世間のルールをわきまえない自己中心的態度」であると述べた。この態度を維持できるのは分析者個人に対する特有の盲目性(見えなさ)である。治療期間中は分析者はそれ以外の人ならあるはずの私的利害を持つ人間でなくなっているではないか。分析者にも私的利害があると、洞察に到達するのは、通常、ようやく分析からの離脱期において得られる、しかも段階的にである。

〜古型の愛のもう一つの特徴はいつわりの両価性pseudo−ambivalenceである。この原初的な対象関係の場合には、対象に対するさまざまな行動は、必ずしもさまざまな感情的態度(愛なり増悪なり)の結果ではなく、子どもの持つ素朴エゴイズムに発するものである。この素朴エゴイズムにおいては、自己の利害と対象の利害との間にある対立は全く認知されない。たとえば、幼児も転移状態にある患者も母親(あるいは分析者)が病気になることはゆるされないと思っている。それは相手が元気であってほしいという心配ではなく、相手の病気によって自分の幸せが危うくなりはしないかの心配をしているのである。実際その通りであることは、子どもにせよ患者にせよ、かねてから恐れていた(母あるいは治療者の)病気がほんとうに起こった時には非常に薄情な反応をするのを見ればよく分かる。

 以上述べた愛の形のいずれの中にも、特異的に母親に妥当する形の愛が認められることも私も疑わない(一般に知られていることを繰り返しただけなのだから)。けれども、それでもなお私は、大部分の人間が他では全く正常で相手の利害を認めるいわゆる“大人の”利他的愛の能力がある場合でさえ、生涯を通じて母親に対してはこの素朴な利己的態度を維持することを強調したいのである。母と子の利害の一致とはいつの世にもわれわれすべてにとっていうまでもない自明のことなのである。そして、母親がどの程度この利害の一致を実際に感じているかが、母親の良し悪しを見分ける世間公認の尺度である。