うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【われわれは愛し、パートナーを満足させる。それは相手から愛し返され、満足させてもらうためにである。われわれは相手の願望に自分を合わせようとする。】





 今日も日中は賑やかだったので、2班に分かれました。
おっちゃん組は、外食と、すろーじゃむの大きなお風呂に行きました。



 最後のいちご狩りもしました! 



 大きなお風呂は、今回も男子だけでした。





 ぶどうは元気で、花が咲き始めていました。北海道では、7月でしたが、こちらは早いですね!
ぶどうの苗をくれた、北海道の友人に写メを送ったら、早いね!と、24日から田植えをするので、毎日トラクターに乗ってシロカキをしていて、お尻が痛い!と言っていました(笑)
肉襦袢があるやんか!と、またまた毒舌を吐いてしまいました(笑)

 今日も無事一日が終わった事、皆様に感謝しています。
急な日中一時もあり、(湖西市の方でしたが、湖西市の方は2名利用予定でしたので問題ありませんでした)送迎が増えましたが、皆さんのご協力のお蔭で、無事こなせました!





 本は、早番でしたが5時に家を出て、ファミマでコーヒーを飲みながら読みました。
下記は、本の題名をいちいち(笑)思い出さなくても、一次愛というのが良くわかる章です。
 
 子どもは無慈悲だと、以前は良く聞いたものですが、そう感じさせてしまうのも、一次愛の特徴なのかも知れませんね。


 〜これらの観察所見から患者の中の幼児的なものについての推論まではほんの一歩である。つまり、患者は、そのような飽くことならば繰り返す反応形式を幼児期初期から身に携えて来たと仮定してみることである。ここで反対の声が上がるのではなかろうかと私は心配である。このような現象が幼児期の状況の反復であることはおそらく受け入れてもらえるだろう。しかしそれらがまさしくもっとも原初的なものだという主張には異論があるに違いない。論旨を単純にするために、この異議については後に一次ナルシシズムについて論じる際に詳しく触れることにし、とりあえずここでは議論を先に進めることをお許しいただきたい。そうさせていただくならば、子宮外の心的生活のうち、かなり初期の、いや私の考えでは最初期の段階は、ナルシシズム的ではなく、対象指向的であるということになるのではあるまいか。ただ、その対象関係は受身的性質のものであり、その目標は、私は愛されるべきであり、満足されなければならない、しかも私の側からは何もお返しをしなくてである。これがあらゆるエロス的努力の最終目標であり、これからもそうであろう。ただし現実はわれわれに回り道をさせる。回り道の一つが一次ナルシシズムである。つまり、もし世界が私を十分愛してくれず、十分満たしてくれないのなら、私は自分を愛し、自分を満足させなければならない。したがって、臨床的に観察されるナルシシズムは、必ず悪い対象や言う通りにしてくれない対象に対する防衛である。別の回り道は能動的対象愛である。われわれは愛し、パートナーを満足させる。それは相手から愛し返され、満足させてもらうためにである。われわれは相手の願望に自分を合わせようとする。

おわかりのように、これらはいずれも乳児の能動的行動であり、そればかりか対象指向的な活動である。子どもに授乳するという日常表現は間違いであって、実際には子どもは能動的が乳を吸っている。この事実もその一例である。 当然のことながら、この傾向性の延長は、成人においてもいたるところに見ることができる。だから成人の性生活、神経症、連続の仕方、さきに触れた新規蒔き直しの期間に起こる諸現象の中にもである。また、無数の魔術的、神秘的、象徴的行為もあげておきたい。握手する、手を重ねる、体に触れる。しがみつくなどはみな同じ傾向性を基盤としており、他者と同一化する、あるいは他者の助けを求めるという目的が暗黙のうちに告白されている。 ヘルマンはさらに、しがみつき行為が非常に多くの対象関係の共通の前駆段階であることを示している。この触れる、撫でる、という傾向性を穏和にすることによって生まれるのがやさしさである。禁止は退行的な(しがみつきの)強化をもたらすもので、これからサディズムが発展するのではあるまいか。まだまだマゾヒズムの傾向性もしがみつきにまで遡ることができる。正常な官能的性行動においても抱擁する、身体を押しつけるなどのしがみつき行為が重要であることはわざわざ証明するまでもないだろう。 この理論は、アリス・バリントの研究によって、さらに幅広い基盤の上にすえられた。ヘルマンと私とはこれらの現象を患者の立場すなわち子どもの立場から考えてみた。自然ここで女性に現れてもらわなければならなかった。それは、この一にして二になる(母子)統一体を、もう一方の側からつまり母親の側から明るい光の中に置くためである。その結果、予期しなかったわけではないが、それにしてもきわめて重要で意義深い発見があった。母子関係の両パートナーは、退行リビドー的に等価であるという発見である。リビドー的にみて、母親は子どもとまさに同じく受領者でも供給者でもある。母親は子どもを自分自身の体の一部であると感じながら、同時に敵対的な異質なものと感じるが、それは子どもが母親の体に持つ感じと全く同じである。また、母親が子どもはその子自身の生命、その子自身の興味深いを全く持たないかのように扱うのはファンタジーの中ではしばしばであるが、現実においても希ではない。ロンドン学派の人たちは、子どもが両親に対する行動をほとんど同じ言葉で語っているではないか。
 このような原始的−自己中心的な形の愛は、次の希望的原則に従って動く。私にとって良いことは子どもあなたにとってもあてはまる。つまり、この愛は自分の利害と対象の利害との間の差異を知らず、パートナーの願望が自分のに全く同じことを自明のこととしているのである。対象からの要求が、この調和状態をはみ出せばそれは耐えがたいものとなり、不安と攻撃を呼び覚まさずにはおかない。同様の態度が、分析治療の過程において決まって現れる。この場合には、傍若無人の自己中心性に加えて、この対象関係のもう一つの性質がよく見られる。それはパラノイア的感じ方である。あらゆるものが患者を中心に回転し、ありとあらゆることから、過程が十分愛され注目されているかいないかの結論を下すようになる。
 あらゆる欲動の究極目標が対象との融合、自我−対象−統一体の確立にあるというのはありきたりの真実である。成人が、この原初的目標にもっと近づけるのは、オーガズムにおいてである。性交は、なるほど愛他的行為として始まるが、自らの興奮が高まるにつれて。パートナーに対する配慮は減少し、オーガズムの直前から最中には関係パートナーの利害は忘れ去られてしまう。もっとも、パートナーと一つに融合し、最高の快楽を共に味到しているという確信に包まれてのことであるが。 この種の状況すべてにおいてはパートナーなり分析家なりについての現実知覚が不十分であったり、あるいは全く欠けている。パートナーや、分析家に願望は、自分の願望と全く同一であるかのように扱われる。しかもパートナーなり分析家の存在は当然のこととされて疑いをさしはさまれたりしない。これと全く同じ原始的な愛の形が幼児期にもあると推定してもよかろう。