うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

増築工事と、【この領域のどこをみても外的対象が存在しないため、転移関係が生まれないことだ。転移の存在しないところ、われわれの方法は無力である。】


 今日は、事務仕事をしたり、現場に入ったり、緊急受入れがあったりで、あっという間にこんな時間.....。
難しいことは諦めて、後は、ギターを弾いてから寝ます(笑)弾きたいだけです(笑)
 自宅にいると、気が付けばギターを持っているので(そんなわけないやろ!)(笑)本はファミマかマックと決めています(笑)
今日も早めに出て、ファミマで読みました。(笑)結構進みましたが、アップは先日読んだ箇所です。
 今日も遅くまで、大工さんが工事をして下さっていました。暗くなってからの帰宅になったので、自分の携帯では、画像が汚くなってします(笑)
四方がパネルで塞がれ、窓枠も取り付けられていました。




 取り敢えず3つめの領域、創造領域です。
今、頭から離れないのは、エディプス水準では言語が使えるが、基底欠損水準では使えない......。やはり、知的に障がいのある方々に有効なのは、基底欠損水準での支援だと思われます。

 自分は、多分下記の水準(笑)

第五章 創造領域
 エディプス葛藤領域の特徴は、主体(患者)に加えて少なくとも二対象の存在であり、基底欠損領域の特徴はきわめて奇妙な種類の排他的二人関係であった。これに対して第三領域は外的対象の非存在を特徴とする。主体(患者)はいわば自分の足だけで立ち、関心は主に自己の内部から何ものかを産出することにある。もっとも、生産物は対象の場合もあるがそれに限らない、とにかくこの領域に創造領域、創造水準という命名を提案する。いちばんよく論じられる場合が、芸術作品の創造であることは論を待たないが、他の現象もこの領域に属する。たとえば数学や哲学である。人物や事物の理解もこれに算入される。また、順序は後になったが決して洩らせないものがまだ二つある。いずれ劣らずきわめて重要現象である。一つは身体病、精神病を問わず“びょうき”の始まり。初期段階である。もう一つは“びょうき”からの自然回復過程である。 いろいろ探りは入れられているものの、この型と過程については目下ほとんどなにも判っていないのがいつわらぬところである。この領域の知見がかくも乏しいはっきりした理由が一つあげられる。この領域のどこをみても外的対象が存在しないため、転移関係が生まれないことだ。転移の存在しないところ、われわれの方法は無力である。したがって当人がこの領域外に出てから後のちょっと観察をもとに推論するほかはない。舞台上に外的対象が一箇出現してくれるならば、これすなわち外的対象が存在するようになったことで、われわれ手だれの分析法が適用できる。たとえば、芸術作品が完成するとか、数学・哲学の学位論文が完成するとか、ある事物ある人物への洞察理解が一部なりとも言語化されるとか、病気が進行して病気を誰かに訴えられる段階に到達する、とかがそれに当たる。 この心的状態はその重要性にもかかわらず、その理解をめざすわれわれの試行がなお初歩段階にあるのも、転移の非存在のためである。この型の状態に関する精神分析理論的は大部分、その使用語に微すれば、その状態にある人物を一種のゼロからの産出者とみている。私の知る限り、すべての言語はこの状態の叙述にあたってもっぱら受胎・妊娠・出産に関する語前借用していました。人は観念をはらみ、腹案が育ち、作品等の生みの苦しみを味わい、何かを生み、生みそこなう、等々。妊娠出産の心理学が目下粗漏なのも、たぶん、同一の理由、つまり転移の非存在の理由だろう。この場合でもわれわれは、明らかに一人状況であるものを何とか二人状況に変えようとする。馴染みの方法を用い、いつもながらの考え方をしたいがためである。 創造領域でも、われわれが慣用され成人言語を用いるために困った事態が起こる。創造領域に“対象”のないのは自明だが、創造期間の大部分、少なくとも一部期間、主体が完全に孤独でないこともこれまた自明である。が、困ったことに創造の領域で主体が完全に孤独でない時に存在する“何か”を叙述する、せめて示唆でもいいが、とにかくその語をわれわれの使用する言語は持ち合わせない。これでは話にならないから私は“前対象”(pre−object)なる語の使用を提案しよう。“対象の芽”(object−embryo)はもう言いすぎでなかろうか。