うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさんと、ブドウと、【私の考えついた答は、言語が信頼性を失った事実を留保なく受け入れて、当面患者を言語水準に無理に押し戻すのは全部あっさりあきらめることである。】


 今日は休みなので、ゆっくり寝ました。
起きたらねこさんもゆっくり寝てましたが、親分から電話があり、今日ならホームの方の移動の手伝いができるからと(笑)
起きたばかりなのに......。
 朝食が遅かったので、午後から現場に向かう前に、昼食代わりにシュークリームとコーヒーを飲みながら(笑)、本を読みました。

 1時間くらい本を読んでから現場に入り、二階にあったベッドを解体して1階に降ろしました。あまりいると働かせられるので(笑)(すでに11連勤w、常勤換算をクリアーした上に.....)それで帰りました(笑) 



 昨日は、ブドウ(トムソン・シードレス)の、伸びた枝を誘引して来ました。花芽もしっかりしてきました。
唯一の肥料、雑草を抜いてブドウの根元に置いてきました。梅雨をなんとか乗り切って、秋には収穫が出来ると良いですね!
 春はイチゴで、秋はブドウ! いいですね!






 アップは貯金です。基底欠損がまだ続きます。

『まず、圧迫的あるいは抑制的な対象が目の前にあってはならないこと、環界は静穏平和安全で押しつけがましくないものでなければならないこと、環界が存在すべきこと、それも主体(患者)に好意的な環界であるべきこと、しかも、主体(患者)はいかなる意味でも環界への注意、認知、関心を強制されないことなどを意味する。』 繰り返しになるが、以上の共通面はそのまま正確に私のいう一次対象あるいは一次物質の特性である。



 下記のようなことが出来るには、真剣にその方に向き合わないといけないし、それ以上に勉強もしないと(沢山の言葉を知らないと、非言語的な対応ができないと思っています)真剣に向き合うだけでは、何もできないと思われます。勉強と言うのは、本当にきちんと現場を見て来られた方の著作・論文もですが、タヴィストックで行われている様な乳幼児観察も必要な感じもします。
『この種の対象あるいは環境を準備することは確実に治療という仕事の重要な一部分である。しかし、一部にすぎず、治療という仕事全部でないことも明らかである。分析者は“欲求を認識する”対象であり、時としては、“欲求を充足させる”対象でもあるが、それだけでなく、また、“欲求を理解する”対象、さらにこの理解を患者にコミュニケートする能力を持った対象でなければならない。』

 自分の主観的すぎる意見ですが、知的に障がいをお持ちの方々には、基底欠損領域における、治療法が(自分たちは支援ですが)大きなヒントを与えてくれています。
下記の最初の方の文章が、そのまま現場でも使えます。




 したがって、基底欠損領域あるいは創造領域に退行している患者に大体いつでも有用な技法は、私の経験では、解釈をもって強引な介入を試みないで当面寛大に退行に耐えることである。その時間は数分間のこともあり、一回の面接の相当部分を占めることもある。すでに何度も触れたが、この時期においては、言葉はどの角度からみても信頼性のあるコミュニケーションの手段でなくなっている。患者の言葉はもはや自由連想をになう翼でなくなり、生命なき反復常同となり果て、一見言わんとするようにみえる意味をほんとうは意味していないので患者の言葉の背後にあるものを理解するのが分析者の仕事ではないか、という標準技法の助言はこの場合にもあてはまるが、ただ問題は、理解したところを退行患者にどうコミュニケートし返したらよいかである。私の考えついた答は、言語が信頼性を失った事実を留保なく受け入れて、当面患者を言語水準に無理に押し戻すのは全部あっさりあきらめることである。これは、患者のつくり出した題材を“構造化”する試みを全面的に放棄し、――どのみち“正しい”題材ではないのだ――今のありのままの状態に耐えることを意味する。したがって題材のほうは、患者が慣用言語が通じるエディプス水準に復帰し分析者に題材理解の鍵を与えられるようになるまでは、不整合な、ナンセンスな、バラバラのものであってよいとする。 換言すれば、分析者は退行を受容しなければならない。分析者と患者とが一種の相互体験として退行を寛容できる一種の環境あるいは雰囲気を分析者の方が醸成しなければならないという意味である。このことが必要不可欠なのは、この状態にあっては、外から圧力鍋を加えれば、それはすべて、患者対象間の不平等関係を成長させて即座に退行できる状態を恒久的に維持しようという、いずれにせよ患者の中に存在する強い傾向を更に強化するからである。〜

 問題の時期において導きの糸となりうる原理は何だろうか。それは特に絶対に必要でなければ一切の干渉を避けることである。特に解釈は十分念を入れて吟味してからでなければならない。患者が解釈を往々不当な要求、攻撃、批判、誘惑、刺激と感じるからである。解釈は、分析者が「患者が確かに解釈を求めている」と確信できる時に限り与えるべきものである。こういう時には解釈を与えないことを不当な要求あるいは刺激と感じるだろうからである。

  まず、圧迫的あるいは抑制的な対象が目の前にあってはならないこと、環界は静穏平和安全で押しつけがましくないものでなければならないこと、環界が存在すべきこと、それも主体(患者)に好意的な環界であるべきこと、しかも、主体(患者)はいかなる意味でも環界への注意、認知、関心を強制されないことなどを意味する。繰り返しになるが、以上の共通面はそのまま正確に私のいう一次対象あるいは一次物質の特性である。
 この種の対象あるいは環境を準備することは確実に治療という仕事の重要な一部分である。しかし、一部にすぎず、治療という仕事全部でないことも明らかである。分析者は“欲求を認識する”対象であり、時としては、“欲求を充足させる”対象でもあるが、それだけでなく、また、“欲求を理解する”対象、さらにこの理解を患者にコミュニケートする能力を持った対象でなければならない。