うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

まりちゃんとちゃぶ台と、はるくんのアメ車と、【逆に、分析者が自己と患者間の不平等減少に成功するほど、分析者は患者からみて、押しつけがましくないふつう、人間にみえ、退行が良性となる公算が増大する。】


 夕食時、冗談で広くなった食堂にちゃぶ台で食べる人って募ったら、まりちゃんが手を上げました。
冗談かな?と思っていたら、本当に食べておられたので、逆にびっくりしました(笑)
 昭和世代は、懐かしいな!とか、うちの娘は3歳でちゃぶ台をひっくり返した(笑)とか、色んな昔話が出ていました(笑)
普段とちょっと違うことをするだけで、会話が弾むものですね(笑)



 今日は、本当は休みだったのですが(笑)市役所に書類を持って行ったりして、現場に行ったら、しっかり仕事をさせられました(笑)。
二階に上がって片付け等していたら、はるくんのアメ車が並んでいました!何となくかっこいいですね!
 好きな物や事があるというだけで、人生が楽しくなりますね!
自分はやっぱり音楽でしょうか?


 本は、市役所(豊橋の)の駐車場から出る時に、渋滞していて、中々外に出れなくて、お昼が遅くなりました。
結局、本を読みながら長居できるマックにし、本を読みながら昼食を頂きました。それから現場に行ったので、用事ができた親分の代わりに19時まで働かされました(笑)


 下記の2つは、解答ですね!基底欠損水準では解釈よりも、対象関係を重点に行うと言うのが一つの答えですね。ですが、『患者に一種の二人関係を体験させる技法だった。』というのは、現実にはどういう風にやって行けばよいのでしょうか?母親と乳幼児の関係を、退行の具合を見ながら作って行くのでしょうか?それしか自分には想像がつきません。それだとしたら、アクティング・アウトは、患者さん(利用者さん)だけではなく、分析家(福祉職)もしなければならないのでしょうか?アクティング・アウトできる環境設定をしてゆけばよいのでしょうか?初学者には、いまいち分かっていません。

『任意の症例において解釈と対象関係という治療手段をそれぞれどれだけ用いるべきかの問題である。量だけでなく、いつ、いかなる比率で、どの順序で用い、べきか?どの症例でも重要な問題だが、とくに退行患者の治療中、治療が基底欠損の領域に踏み込んだ時に緊急な問題である。すでに認識ずみのことに属するが、この領域における言語の有用性は限られており、しかも不確実である。論理的にも当然、この期間に治療因子としては対象関係の方が重要性も信頼性が高いと私は思う。むろん患者が退行を脱してのちには解釈が再び重要となるだろう。』 

『それは、患者に一種のそれは、患者に一種の二人関係を体験させる技法だった。言語では表現できない、また言語で表現する必要のない、そしておそらく言語で表現してはならず、ただ、折に触れて分析の場で、慣習上“アクテング・アウト”といわれるものによる表現があるだけの二人関係である。言語では表現できない、また言語で表現する必要のない、そしておそらく言語で表現してはならず、ただ、折に触れて分析の場で、慣習上“アクテング・アウト”といわれるものによる表現があるだけの二人関係である。』


 下記は、バリントが何度も書いています。その上にあるフェレンツィは実験治療をはじめてまもなくで何をしても結果は同じで、自分の患者がいっそう自分に依存してくることのすなわち自分が患者たちにとって無際限に重要人物になることを認識している。』フェレンツィの技法は患者とフェレンツィとの不平等性を減少せず、かえって増大させた患者たちはフェレンツィを現実の意味で全知の最重要人物と感じていたということができる。』は、きちんと後継者たちが、答えを導き出していますね。
 意地悪く読むと、現場で自分しかこの方を見れない、自分は大変なこの方を見れるから凄いでしょ的なことは、結局、利用者さんの為には全くなっていないということですね(笑)自分の名誉しか考えていない輩も多いですから(笑)利用者さんが安心して暮らせるようにさせて頂くのが、自分たちの仕事であり、ニーズ・ニードに応えるのが仕事だと思って今まで生きて来ましたので、自分にとっては勇気と元気をくれた箇所でした。
 『今日の分析者は申し合わせたように分析の場で起こることをすべて、また――というか主としてというか――転移すなわち対象関係という観点から解釈する。この技法は鋭敏かつ効果的技法だが、欠点はわれわれ自身が自分の身を患者に差し出して絶えずまとわりつきの対象とさせることである。』
 後、2回くらいで、基底欠損は終わります。本当に勉強になりました。




第二五章 押しつけがましくない分析者
 第二二章は退行には二形態があるところで終わり、悪性退行に陥る危険を避け、両性退行の成長の道をなだらかにするには、分析者には、人間の限界内で、何が可能か、という技法問題には触れずじまいだった。第二四章の議論では、何ができるかの一般指針を多少出した。分析者の技法と挙動が全知全能を思わせる程、悪性退行に陥る危険が大となる。逆に、分析者が自己と患者間の不平等減少に成功するほど、分析者は患者からみて、押しつけがましくないふつう、人間にみえ、退行が良性となる公算が増大する。 これは既に現代精神分析技法の最重要問題の一つである。任意の症例において解釈と対象関係という治療手段をそれぞれどれだけ用いるべきかの問題である。量だけでなく、いつ、いかなる比率で、どの順序で用い、べきか?どの症例でも重要な問題だが、とくに退行患者の治療中、治療が基底欠損の領域に踏み込んだ時に緊急な問題である。すでに認識ずみのことに属するが、この領域における言語の有用性は限られており、しかも不確実である。論理的にも当然、この期間に治療因子としては対象関係の方が重要性も信頼性が高いと私は思う。むろん患者が退行を脱してのちには解釈が再び重要となるだろう。 ここで一つ、問題が出てくるだろう。分析者が個別なその患者にとって最適と考える対象関係に創出するために用いうる技法は何か?言い換えれば、最良の治療効果があがる公算が高い技法は何だろうか?実験的に対象関係の効果をかなり系統的と見た最初の分析者はフェレンツィである。この角度から眺めればフェレンツィの“積極法”と“弛緩原則”は、フロイトの古典的勧告に即してつくられた分析の場の雰囲気よりもある種の患者には適合したものと考えた対象関係を作りだそうとして、慎重に考えた上でなされたフェレンツィの試行であることが分かる。フェレンツィは実験治療をはじめてまもなくで何をしても結果は同じで、自分の患者がいっそう自分に依存してくることのすなわち自分が患者たちにとって無際限に重要人物になることを認識している。フェレンツィはしかし、なぜそうならざるを得ないかのちには理由をにしえなかった。今日のわれわれならば、フェレンツィの技法は患者とフェレンツィとの不平等性を減少せず、かえって増大させた患者たちはフェレンツィを現実の意味で全知の最重要人物と感じていたということができる。



 〜私は本書にいくつかの難関を乗り越えようと企てた。何年かたつうちに私は次にような技法の実験を済ませた。それは、患者に一種のそれは、患者に一種の二人関係を体験させる技法だった。言語では表現できない、また言語で表現する必要のない、そしておそらく言語で表現してはならず、ただ、折に触れて分析の場で、慣習上“アクテング・アウト”といわれるものによる表現があるだけの二人関係である。誤解なきよう急いで付言するが、この非言語コミュニケーション、すなわちアクテング・アウト、に対しても、もちろん患者がこの水準を出てエディプス水準に再到達すれば徹底操作を行うが、しかし、その時まで待つ。 


 ことばは、この時期にはできない自由連想を荷うだけの力をなくしている。ことばは生命なき反復常同となる。いかにもすり切れたレコード盤で、針がとめどなく同じ溝をこすっているの感がある。しかし、これは分析者の行う解釈行為にもあてはまる。この時期のあいだに分析者の下す解釈も同じ溝をはてしなくこすっている感じがする。そのうちに分析者が、この時期には患者の言語的コミュニケーションの解釈を押しすすめるだけの基盤がないことに気付いて途方に暮れ絶望する。エディプス水準はもちろん、いわゆる前エディプス水準でも一部においては、適切な解釈は、抑圧されていた葛藤を意識化し、それをとおして抵抗を解消し、分裂を修復復元して、患者の自由連想の流れを再び円滑にする。しかし基底欠損水準では必ずしもそうはゆかない。患者は解釈を干渉、手ひどい仕打ち、不当な要求、フェアでない不意打ち、敵対行為と体験する。また愛のしるしととることもある。生気なきもの、文字通りの死物で、何の力も持たない感じを抱くこともある。


 〜今日の分析者は申し合わせたように分析の場で起こることをすべて、また――というか主としてというか――転移すなわち対象関係という観点から解釈する。この技法は鋭敏かつ効果的技法だが、欠点はわれわれ自身が自分の身を患者に差し出して絶えずまとわりつきの対象とさせることである。また、まとわりつきと逆の事態をすべて、抵抗、攻撃性、ナルシシズム、過敏、偏執症的不安、去勢恐怖、などと解釈してしまうのも欠点である。そうすればきわめて両義的で緊張した雰囲気がつくり出され、患者は、自立を求める欲求に促されてもがくが、しかもどの出口もオクノフィリア的“転移”解釈のために閉ざされて外への出口が見つからない。