うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

サクラと、ゆうちゃんの誕生日会と、、【この領域はもっぱら二人の人間のみを容れるからだ。もっとも二人の関係は二人の成人間の関係でなく、より原始的である。】


 桜が満開になったのは、いつだったでしょうか(笑)
満開になったら、きれいに撮ろうと思っていましたが、ちょっと遅かった感がありました。

 今日は、シフトでは休みでしたが、事務仕事などやっていたら、あっという間に一日が終わりそうです.....。
やったら直ぐに終わる仕事を、やれパスワードだ、保護の解除だとか......。セキュリィティーのシステムやPCの環境が違ったりすると、開かない時があるので、イライラしてしまいます(笑)しなければいけないことがまだまだあるので、ちょっとキレそうに....(笑)。いつも事でしょうか(笑)

 増築工事は、朝しか見ていませんが、屋根の工事に入っていました。きっと屋根は完成していると思われます。


 今日は、ゆうちゃんの誕生日会でした!先程、夜勤者が写メを送ってくれましたので、追加させて頂きました。 体調の悪かった方も、看護師さんのおかげで、すっかり良くなっている様で良かったです!テーブルにはありませんが、今日はお寿司だったようです!今日の夜勤がしたかった........。




 体調の悪い方の様子を見に行ったついでに、ファミマによって、本を読もうと思っていましたが、画材を買いに行くと、親分に言われて(笑)、本は、結局読めず(笑)でした。貯金がまだあるので(笑)先日読んだ箇所からのアップです。
 第1部のまとめですが、本当に今」、自分が欲しいもののヒントを頂きました。
基底欠損水準というのは、本当に使えます。やはりエディプスを通過しないといけないのでしょうが、知的に障がいをお持ちの方々には、非常に難しい水準でもあります。
 逆に、もしこの水準に辿り着けたなら、その方にとって素敵なことだと思われますので、しっかり勉強したいと思っています。
まとめなので、余計なことは(いつも書いていますがw)書きません。



第六章 第一部の要約
 これまで心に少なくとも三領域あるらしいことがわかったと思う。はじめのころリックマン(1951年)が、各々を番号で呼ぼうと提案した。これら三者を領域(area)でなく、空間(space)、圏(sphere)、場(field)、水準(level)、局所(locality)、審級(instance)と言ってもむろんよかろうし、他にも適当な名称があるかもしれない。以上の名辞にはそれぞれ持ち前の連想の円光がある。私は、以上の名辞のどれかをもっとも適切と決めてしまって自分の考えが狭小化するのを好まないので、目下“領域”“水準”かを使用する習慣だが、実は自分でも決着がついていないことはいっておく必要があるだろう。 三領域の中でもっとも周知のものは、三なる数を特徴とする「エディプス葛藤の領」(the area of Oedipus conflict)である。これはまさに中心的コンプレックスと呼ばれるべきである。人間個人発達であろうと集団的発達であろうと、すべて、必ずこの領域を通過しなければならず、また、その個人なり文明なりがエディプス葛藤との闘争中に発見した解の刻印はこの領域あるらしい通過後恒久的にその個人、文明内に残る。この領域の全体的な特徴としては、この領域に生起する事態にはすべて主体の他に少なくとも二個の主体類似の対象を含むという事実である。この水準で働く力は原則として、当の個人とそれと類似の対象との関係のもつれから生じた両義的なものに由来する葛藤の形態をとる。 この水準はわれわれにもっとも馴染みの水準であるかも理由は主として二つある。第一は主体と対象間の関係が成人の対象関係と高度に相似的なことである。第二は、成人言語が観察所見を叙述するのにおおむね適切な手段のことである。 この第一部において証明しようとしたのだが、第二の領域にはエディプス葛藤領域と根本的相違がある。この領域は二なる数を特徴とする例の「基底欠損領域」(the area of basic fault)である。なぜ二が特徴かといえば、この領域はもっぱら二人の人間のみを容れるからだ。もっとも二人の関係は二人の成人間の関係でなく、より原始的である。二領域の相違はこれに尽きずも働く動力の本質が別である。エディプス領域では、力の形態は葛藤なる形態をとっていた、が基底欠損に由来する力は、顕著な力動性をもつことはかわらないが、葛藤という形態に持たない。第四章の記述どおり、それは一種の欠損という形態を持つ。心の中に歪みまたは欠失が生起し、欠損が生じている。これは補填するべき性質のものである。ここで技法問題で蔟出するが、これは第三部以下第五部までに扱いたい。この種の現象の理論的叙述の試みに際しての最大の困難はおそらく成人言語が絶対に無効とはいえなくともほとんど用をなさないことである。このことにはいく度か触れた。 最後の「創造領域」は一なる数が特徴である。外的対象を含まず、したがって対象関係も転移持たないない。この過程の知識の貧困と漠然性はこのためである。われわれ手持ちの精神分析法はこの領域に適用不能で、したがって信頼度の乏しい帰納法、外挿法に訴えざるを得ない。 以下の各領域は心を一全体とみる時あるいはどのくらい深さまで届いているものだろうか?たいへんおもしろい問題だが私には不完全きわまる答えしか用意がない。これら三領域がすべて自我を貫通しているのだけは問題だが、超自我まで届いているのかどうか私には何ともかく言えない。エスに関しても同様で何とも言えないと認める他はないことをしかし心的装着用理論をおける最近の進歩は主として――いやもっぱらだ――自我に関するものである。これはフェアベアンにもハルトマンにもウィニコットに、同じく該当するので、私だけ悪いわけではなさそうだ。