うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

増築工事と、【それは決定的に二人関係であり、しかもパートナーのうち一方だけが大切にされる関係である。その人の願望や必要だけが問題で、必ずそれを満たさなければならない関係である。】


 今日は、早番に入り(二時間くらいですがw)、喘息の薬をもらいに行き、碧南から副理事長さんが来て下さったので、昼食をご一緒させて頂きました。
事務仕事も少しだけやりました(笑)シフトでは休みでしたが(笑)
 遅くまで、大工さんが仕事をされていました。正面からは進捗状況が良くわかりませんが、両サイドと母屋との連結部分の工事をして頂いていたようです。29日には、瓦が載るそうです。


1月の末から、何故か?やたら忙しくて、あまり休めていないせいか(笑)どっと疲れがでたので(笑)今日は早く寝ます!




 本は、病院の予約時間まで時間があったので、得意のファミマで読みましたが、内容の方は第二部に入りました。ケースメント先生を置いてまでこの本を読んでしまうのは、現在の自分の課題のヒントになりそうな箇所が、沢山あるからだと思います。
 後から出て来る、エディプス葛藤領域・基底欠損領域・創造領域が、それぞれ、3つの対象・2つの対象・1つの対象を理解するには、今回の箇所もきちんと読まないと自分は無理でした.....。

 下記は、ウィニコットのいう(しつこいですがw、自分の為にも何度も書きます)ほど良い支援者(母親)でなくてはならない理由が記述されているように思います。
『しかし環境による場合もあろう。たとえば不十分育児、気まぐれ育児、ハハラハラ育児、過保護、硬直的育児、首尾一貫性欠如育児、タイミングのわるい育児、刺激しすぎ育児、などの欠陥育児だったり、そもそも育児とは何かがわかっていなかったり、なげやり育児の場合である。』






以上の事態は本質的に二人心理学の領域に属し、三角関係がエディプス水準に属し事態よりも初歩的原始的である。また、以上に事態は葛藤の構造がない。私が以上の事態を“basic”(基底的)という理由の一つはこのためである。しかし、では、どうして欠損“fault”(できそこない)なのか。それは第一に他ならぬ患者がこの言葉を使って指すからである。患者はこのように言う。自分の内部に欠損が一つある気がする、この欠損を修繕する必要がある、と。患者はコンプレックスとも葛藤とも対人状況とも感じていない。一つの欠損と感じているのだ。第二に、この欠損の原因は、誰か知らないが自分をつくりそこなったため、あるいは誰かがするべきことを自分にしてくれなかったため、という感じがあるからである。さらに第三にこの領域は必ず一種の大きな不安につつまれている。患者はこの不安を通常こう表現して、分析者(せんせい)、こんどこそ、自分を駄目にしないでくださいね、と必死に頼み込む。実際やりそこないは許されない。〜

〜思うに、さかのぼって基底欠損の起源がどこにあるかを模索すれば、結局「個体形成の初期段階において個体の持つ生理・心的欲求と供給されうる物質的・心理学的保護・配慮・好意間に存在する相当。落差」という事態に逢着する。この事態から一種の決失状態が生まれるらしく、またその結果と残余効果は一部不可逆的らしいが、個人発達初期のこの落差が先天的の場合もあるだろう。幼児の生理・心理的不可欠条件がきびしすぎて現実に与えてやれない場合である。(生存不能な幼児もあり、フリートライヒ氏失調症や嚢腎症など進行性の先天的疾患もある。)しかし環境による場合もあろう。たとえば不十分育児、気まぐれ育児、ハハラハラ育児、過保護、硬直的育児、首尾一貫性欠如育児、タイミングのわるい育児、刺激しすぎ育児、などの欠陥育児だったり、そもそも育児とは何かがわかっていなかったり、なげやり育児の場合である。

〜さて本論にもどるとして「時に基底欠損なる結果を生じる過程」についての私の叙述が、私の好みによる偏りで対象関係論的語調を帯びているのは読者の方でわきまえておいていただきたい。私の見地からは、この種の過程はすべて一種の奇妙な非常に原始的な対象関係、すなわち成人間に通常見るところと根本的に別種の対象関係内で生起する。それは決定的に二人関係であり、しかもパートナーのうち一方だけが大切にされる関係である。その人の願望や必要だけが問題で、必ずそれを満たさなければならない関係である。もう一方のパートナーはきわめて強力な人物の印象があるが、実は例のパートナーの欲求・欲望を満足させてやりたいと思っている、あるいは逆に断乎その欲求・欲望を押さえ込もうと決意している場合だけ、またそういう面でだけ重要人物であるにすぎない。それ以外、たとえばその人の私的な興味・必要・欲求・願望などは全くないも同然である。私はこの、本質的に二人関係であるもの、を更に詳細かつ具体的に論じて、それと私が一次的対象あるいは一次対象関係と呼び慣わしてきたものとの区別を第一二章で論じるつもりである。