うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アトリエ・カーグと、バンドクラブと、ストッレッチと、【分析者の解釈を解釈として体験してくれないならば徹底操作は起こりえない。解釈は双方が合意した意味を持つ単語で綴られた文章でなければならないのである。徹底操作は、分析者の単語が分析者にも患者にもほぼ同じ意味を持つ場合に限って力を発揮できる。】



今日は、アトリエ・カーグと、バンドの日でした。
まずは、おっちゃんが、大村知事からおかもっちゃんの代わりに貰ってきた、賞状と楯を、カーグ主宰の親分から渡してもらいました!
 おかもっちゃんは、いつもお世話になっている、職員さんに見せる、と言っておられました。



 今回は、親分が電話を用意して描いて頂きました。


 普段通りの方もおられましたし、続きを描かれた方もおられました。
おっちゃんは、カーグの時は、ほとんどパシリなので(笑)全部の写真が撮れません......。






 バンドは、あいちアールブリュットを主宰されている、楽笑さんの代表の方が、わざわざ見に来て下さいました。
ちょっとリズムが合いませんでしたが、ボーカルさん達は、新曲をきちんと練習して来られていて、びっくりしました!
 きんちゃんと、ちかちゃんの頑張りが凄かったです!
不器用でも、毎日こつこつと練習されている方々には、いくら才能があっても、負けますね。やった分しか成長できませんから!
 りえちゃんは、いつも元気です!
頂いたキーボードも、役に立ちそうです。ありがとうございました。良い感じで音がからんでくれていました。



 皆さん、お風呂に入って、今日の夜勤が、彦坂先生だったので、夕食までの時間にストッレッチをしました。
まりちゃん、ゆうちゃん、いのうえっちの常連組さんは、まだまだ完全ではありませんが、流れをよく覚えていました。
 初参加のまつおさんと、りえちゃんも、笑顔で楽しそうでした!
ストッレチが終わり、夕食になった時点で、帰らせて頂きました。

 皆さんお疲れ様でした!今晩は、良く眠れそうですね!

 本は、早番さんが休まれたので、早番に入り、一応朝の仕事が終わったので、カーグの送迎まで休憩を頂いたときに、ファミマで読みました(笑)
9時半に出る予定だったので、少し前に行ったら、日勤の職員さんが、皆さんを連れて行ってくれていました。ありがとうございました!
 おっちゃんは、ギターを持って、慌てて走って行きました(笑)




 アップは、名古屋で読んだ箇所です。
個人的には、今、学びたいと思っているものです。

 いくら手をかけていても、その方に理解して頂けないのは、エディプス水準にまで、到達できていないからなのでしょうか?
 下記の言葉を見ていても、そんな感じがしています。それでは、前言語水準では、どのようなアプローチが有効なのでしょうか?その後の章に期待しています。
『分析者の解釈を解釈として体験してくれないならば徹底操作は起こりえない。解釈は双方が合意した意味を持つ単語で綴られた文章でなければならないのである。徹底操作は、分析者の単語が分析者にも患者にもほぼ同じ意味を持つ場合に限って力を発揮できる。』



第三章 分析作業の二水準
 誤解のないように付言するが、むろん、分析者は、エディプス水準において分析作業を行う時でも、性器期以前の水準に属する題材を軽視・無視はしない。ただ、それらは成人の言語を用いて分析されるので、エディプス水準つまり“言語”水準に引き上げられて分析される破目になる。ここが精神分析学の一つの急所である。性器段階より前の題材を成人の言語で表現しても患者が理解・納得できない場合、つまり前言語水準からエディプス水準に直接通じるチャンネルがないと思われる症例を分析者がどう料理するべきかがすぐ問題となってくる。 分析技術は1920年代から長足の進歩を遂げた。当時治療不能とされた患者も今日のわれわれが手がければ治療可能だといってもあながち不遜でなかろう。平均的患者も、40年前の分析に比べてより深くより確実に理解できる。この発展期を通じてわれわれは、おびただしい臨床記録を積み重ねてきた。それは確かにその通りだが、しかし、われわれが首をひねる問題もおびただしく集まった。前者も後者も同じくすべて分析の場で起こり、分析の場で観られる事象である。なるほど、後者もエディプス型の葛藤の記述用語(成人の言語)を用いて記述されるが、それはあくまで一次近似にすぎない。経験の累積と観察力の向上とともにわれわれは理論的考察上および技法的練磨上ただならぬ難関の事象に遭遇する破目となった。たとえば、こんな患者もいるとわかった。緊張増大を惹起するものは一切、自我への“とり入れ”が非常に困難な人である。逆にこの世のものならば何でも“とり入れ”られる患者のいることもわかった。もっとも内奥の自己は自我が何をとり入れても全く影響をうけない人たちである。この二種の人物はともに私がいま言った理論上技術上の難関である。おそらく、分析者との関係が分析者に馴染みのエディプス水準で遭遇する治療関係と大幅に違うからだろう。


 〜意図と結果の違いがこれ程酷いのは、同じ事柄でも、患者に同情はしていても病気に巻き込まれているわけではない医師と、病気治療いう事態に深く巻き込まれているその患者、とでは持つ意味が全然違うからである。 分析者も、これと全く同じ目に遭うことが決して少なくない。解釈を一つ患者に出すとしよう。明確で、簡にして要を得た、確実な根拠の、タイミングもよく、的を得た解釈だ。これがしばしばにこちらがいらいらし驚き呆れがっくりする結末に終わる。患者に全然通じなかったり元来の意図とは全然離れた効果を惹起する。われわれの出した解釈は明晰では全然なかった。それならまだしも、そもそも解釈として体験してもらえなかった。分析者という人種は、一般人論として、こんながっかりする目に遭うと、自分で自分を安心させる思考術を三通りでこころ得ている。この三つを使って説明をつけ失望感を水に流そうとするのが常套手段である。第一はこうである。分析者はいちばん大きな不安を分析状況の中で解釈し尽くせなかった、それというのも二義的重要性しかないものに幻惑されて力瘤を入れてしまったからだ、と自己批判する。自己批判してから、ところで患者の幻想の中のいったい何が分析者の解釈を理解する窓を塞いでしまったのだろうと、狂おしくああでもないこうでもないであて推量をする。第二法はこうである。分析者は心中、内容分析・防衛分析・転移分析のそれぞれどこがよくてどこがよくないかがきりのない得失比較論。蒸し返す。これを際限なく続くることができる。第三法は、決定的瞬間において患者の抵抗が強すぎたのだ、だからそいつを徹底操作するためには相当時間を食いそうだ、と自分で自分を励ます。この第三の処方箋は昔はフロイトも使ったことがあると聞けばいっそうほっとするというものだ。 以上、安心のための処方箋・思考術は、あいにくエディプス水準の外では全然効力がない。処方箋それ自体が全くエディプス水準の枠内にあるものだからである。これらの処方箋は分析者の解釈を解釈として体験する窓あらかじめ予想してかかっている。フロイトが“徹底操作”という言葉をつくったのはこの型の分析の場に関してである。患者が解釈をとり入れ、解釈として体験し解釈が自分たち心に波紋を起こすのを自らの容認・受容する場合、そしてその場合にだけ徹底操作が可能である。自明といえば自明のことだ。この処方箋は擾乱の深い患者という人種相手でも、あてはまる場合があるが、あてはまらない場合も必ず出てくる。分析者の解釈を解釈として体験してくれないならば徹底操作は起こりえない。解釈は双方が合意した意味を持つ単語で綴られた文章でなければならないのである。徹底操作は、分析者の単語が分析者にも患者にもほぼ同じ意味を持つ場合に限って力を発揮できる。