うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、シデコブシと、キーボードと、【内面化が生じる前提として重要なものは、相当に良質な自我構造の存在である。つまり、自我の構造が内面化に伴う緊張を自己の内部に封じ込め、それに耐えとおせねばならない。】




今日の日中も、賑やかでした!
花粉症の方は、外出せずに、うたたねでゆっくり過ごして頂きました。
ホームはまりちゃんだけが休みで、ショートの方と、日中一時の方で池ノ原でお薄を頂き、滝頭で桜を見て、籐七原でシデコブシを見て戻りました。写真が、暗くて上手く撮れなかったので、座る位置の関係もあり、申し訳ありません。

 シデコブシも、しっかり咲いていました!
カメラを持って来て写さないといけない(笑)くらいでした。



 女性職員さんが、家で使っていないキーボードがるのでとのことで、持って来てくれました。
ちゃんと音が出たので、さっそく明日使わせて頂きますね!ありがとうございました!

 本は、今日も昼食時、周りの職員さんが気を使って下さって、十分に時間をくれたので、ファミマで、チャーハンを食べながら読みました(笑)
アップは、昨日電車で読んだ箇所です。

 その前に、前章の一部をアップします。
面白くて、ためになり、考えさせられる箇所でした。

『どの流派も固有の技法があり各々相当違いながら、心の構造については共同の基本概念を認め合っている。例外なく、どの流派の分析者にもその流派なりの成功例と困難例があり、治療の失敗率を公平に分けあっていることも付言しよう。』
『流派が違えばどうやら代表的精神分析者が治療に成功する患者の種類も違うのは確実らしい。また、技法が違えば成功も失敗も仕方が違うらしい。とすれば、この世界ではどんな流派にも偏らず批判精神を堅持して探究を推進することが、われわれの目指す技法確立の目的からとっても、もっとも実り多い行き方と思う。』


 下記は、エディプス水準は、言葉が理解できる前提とのことを言っています。
自分が現場で出会う、エディプスをきちんと通過できていない方々は、先輩方も困難に思われておられる、きちんと説明しても、同じ過ちを繰り返してしまうのは、何故なんだろうというものに、一つの答え、言葉が通用しないからでは?と自分は思っています。
 しっかり仕事も、自分の事も出来ているから、言葉の意味理解も出来ていると感じてしまうのは、その支援者さんが優秀だからなのかも知れません(皮肉ではなくて)。
自分なんか、ギターも人の何十倍も練習しないと中々物にならないので、本当に不器用だと思っています。

『伝達と反映という相互作用過程全体を通じて患者と分析家という二人のパートナーは互いに相手の言葉を相手と同じ意味に解していると考えて差し支えない。』

 リトル先生の『まずは身体記憶』というのが、脳裏から離れないのですが、そこにも上記の方々に対する答えがあるように思います。
自分的にも、まだ、はっきりこれだ!というやり方があるわけではないのですが、初めて働いた施設で、ダウン症の方のお母さんが、見てたら分かるのにね〜と言われていたのも、自分の中では大きなヒントになり、初めての方は、取り敢えず一緒の空間・時間で、見せて頂く。自分の物差しで考えるのではなくて、ですね。
 そういう面では、本当にこの本は、精神分析の本当の意味を解明しようとしています。

 今日も朝から色々あり、先程、帰宅しました(笑)でも、大きな事にならなくて良かったです。
夜も色々ありましたが、夜勤が、ばりばりの看護師さんだったので、難なく解決してくれました。医療と福祉の連携が、今日もできました。
 来年度からは、この看護師さんが、管理者を引き受けて下さるので、皆さんも安心だと思われます。
ご家族の方々の信頼も厚いので、本当に期待しています!
 明日は、カーグとバンドの日ですが、行事と重なっておられる方もおられ、賑やかではないかもしれませんが、素敵な作品と、素敵な演奏が出来るように、スタッフ一同頑張ります。


第二章 解釈と徹底操作
 内面化が生じる前提として重要なものは、相当に良質な自我構造の存在である。つまり、自我の構造が内面化に伴う緊張を自己の内部に封じ込め、それに耐えとおせねばならない。その時に自我が解体したりしてはならないのはもちろんだが、アクティング・アウト、投射、混同、否認、離人症など一括して外面化というべき、内面化と異なる防衛手段に訴えずに済むことが前提となる。内面化という過程をもちこたえられる患者は、分析治療の際に生じる事態の言語過程において、フロイトの使ったあの有名な比喩がかなりあてはまる人だ。 実際、分析者は治療時間の大部分、患者が分析者にコミュニケートするものをただ映し出す“一点の曇りもない鏡”と化していられる。それだけではなく、フロイトの公刊した症例研究を通覧して分かるように、この型の分析治療において患者が治療者にコミュニケートする題材とは、ほとんど全部が言語だけでできた題材だ。題材を反射して患者に返す際にも、使用されるのはやはり言語である。伝達と反映という相互作用過程全体を通じて患者と分析家という二人のパートナーは互いに相手の言葉を相手と同じ意味に解していると考えて差し支えない。むろん、抵抗には出会うだろうし、時には激烈な抵抗に遭遇するだろうが、その時でも、患者の自我は変わらず話の分かる信頼できる自我で、ことばをとり入れ、またことばの影響が自我に及ぶのを許容すると思って間違いない。すなわち、この型の自我はフロイトの“徹底操作”を遂行する力がある。こう考えれば、われわれの問題提起に対する第二の回答がおのずから出る。まず、解釈を行えば患者にも分析者にもまさに解釈以外の何ものでもないと体験されねばならないという前提が存在してはじめて前述のごとき技法の叙述が可能となる。自明のことに聞こえそうだが、こればかりは口を酸っぱくして強調したい。〜