うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、増築工事と、【このことによって患者は実に魅力ある人物と化する。この魅力こそ、治療のメスが基底欠損水準に到達した診断上の重要徴候である。】


 今日も日中は賑やかだった様子です。
Kさんは、真剣に手編みをされていました。


 おっちゃんは、午前中は自宅で事務仕事して、午後からは事務所で夕方まで事務仕事をしていましたが、外から楽しそうな声が聞こえて来たので、窓から覗くと、かおちゃんが、親分とシャボン玉をやっていました。
 増築工事で、ガンガン・ドンドンとうるさかったのに、皆さん何も感じないようで、普段通り過ごされていました。
寝たきりの方も、お風呂に入りに来られる方も、午後から病院に行かれる方も居られて、笑い声や、楽しそうな会話が、事務所まで聞こえていました。
 夕方からはホームとショートの方々が来られたので、男性の入浴介助をさせて頂きました。その後は、遅番で21時前まで仕事でした。

 帰宅して、お風呂に入ったら、もうこんな時間......。
ほんと一日があっという間に過ぎていきます.....。カレンダーを見ると、3月もあと5日.....。書類が溜まる一方です......。


 日曜日も今日も、大工さんが入ってくれていました。
何となく進んで来たような感じですね。感じの良い大工さん達なので、利用者さん達も安心して工事を見たり、声掛けをして頂いたりしていて、見ていても微笑ましく思います。



 本は、昼食をファミマで摂りながら、読みました(笑)
ギターは、隙を見てとは、中々いきませんが、本とストッレチは、隙を見てまめにしています(笑)

 エディプス水準と、基底欠損水準の比較が出ていますが、100%は理解できていません.....が、何とか読み切って、他の本もまた読んで、学んでいくしかないですね。
それが理解できたとしても、現場で応用して使えるのかどうかは、尚更わかりませんが、理解できる箇所だけでも、本当に沢山のヒントを与えてくれます。

 下記は、理解できていませんので、前後を何回も読み返してみます。
『このことによって患者は実に魅力ある人物と化する。この魅力こそ、治療のメスが基底欠損水準に到達した診断上の重要徴候である。』
 
下記の3つを読むと、分かったような、分かっていないような(笑)きっと錯覚でしょうね! 脱錯覚を目指して頑張ります(笑)
『いささか意外だが、以上の一切を患者はただ単純に、つらい事実として受容する。腹を立てて一戦交える気持ちが全然といってよいほど出てこないのに全く驚く。もっと驚くのは希望の喪失がほとんど生じないことだ。絶望も希望喪失もどうやらエディプス水準に属する事柄らしい。』
『重要な現象はまだある。分析者の治療行為への評価と感謝に関するものである。エディプスならば、分析者の治療行為がプロの水準に達していれば患者の評価と感謝という是認肯定は治療の力強い味方である。特に、治療中の見栄えしない時期における非常に味方である。』
『ところがこれに対し基底欠損水準では、患者が心中何を思っているかがまったくわからない。まして、治療者の腕がよい、遠い過去も近い過去も理解してくれている、と評価しているかどうかなど、手がかりも全然ない。この根本的相違は、この水準では患者が、自分の欲しいものは貰って当然と感じることがその理由の一つだ。』 
 知的に障がいをお持ちの方々は、基底欠損的な考え方をしたほうが、より理解できるような気がしていますので、頑張るしかないですね。




第四章 基底欠損領域
 基底欠損水準の存在を理論的に承認すると、さっそく、精神分析途上で分析者のメスがこの水準に到達したことを知らせる標徴としてどのような事象があるかが問題となる。一応標準的な症例を見よう。治療はある期間円滑に進行し患者治療者の相互理解も生まれ相手への圧力や要求も相互に(とくに治療者側が)妥当な範囲にとどまり、また(これが大切だが)必ず知的理解が可能である。しかし、ある時点から(突然のことも忍び足元のこともあるが)分析状況の雰囲気が根底的に変貌する。一部の患者では分析開始後ごく短期間でこの時点に縫着する。分析開始直後のことさえある。〜


いささか意外だが、以上の一切を患者はただ単純に、つらい事実として受容する。腹を立てて一戦交える気持ちが全然といってよいほど出てこないのに全く驚く。もっと驚くのは希望の喪失がほとんど生じないことだ。絶望も希望喪失もどうやらエディプス水準に属する事柄らしい。早くてたかだか、鬱病段階以後に属する事柄らしい。もっとも、逆に非常に強い空虚感と生命喪失感があることもあるが(E・バリント、1963年)、そういう場合はふつうその背後に、ことを最後までやり抜こうという真剣な決意を心静かに秘めている。これは、深い苦悩の存在にもかかわらず安っぽい喧嘩腰など出さずに治療をきっぱりやりとげたいと決意しているフシギな混合状態で、このことによって患者は実に魅力ある人物と化する。この魅力こそ、治療のメスが基底欠損水準に到達した診断上の重要徴候である。


〜重要な現象はまだある。分析者の治療行為への評価と感謝に関するものである。エディプスならば、分析者の治療行為がプロの水準に達していれば患者の評価と感謝という是認肯定は治療の力強い味方である。特に、治療中の見栄えしない時期における非常に味方である。ところがこれに対し基底欠損水準では、患者が心中何を思っているかがまったくわからない。まして、治療者の腕がよい、遠い過去も近い過去も理解してくれている、と評価しているかどうかなど、手がかりも全然ない。この根本的相違は、この水準では患者が、自分の欲しいものは貰って当然と感じることがその理由の一つだ。今からこの重大問題に入ろう。 仮に分析者が相手の求めるものをそのまったく与えても、それはあたりまえとされて。分析者のプロ的力量の証拠とか特別の贈り物とか好意のしるしという価値は全く帯びない。時がたつとともに次から次へと要求が出る。今日の精神分析学文献では、この症状は強欲性(greediness)と命名され、口唇的な強欲なる極言まである。この現象を強欲と呼ぶのは反対しないが、“口唇的”というのには私は断乎反対である。口唇的部分本能との関係をカギとしてこの病像を解くことは全然できない。口唇的であろうとなかろうとどうでもよいことで、カギは、この現象の起源が原始的二人関係にあることだ。“強欲さ”を主な特徴とする嗜癖の世界を例とすれば、なるほど文句なしに“口唇的”な嗜癖がはなはだ多い。とくにニコチン、アルコールの嗜癖である。しかし非口唇的嗜癖も少なくない。コカイン吸引嗜癖はそうである。掻痒症におけるさまざまな形の掻痒(嗜癖的掻きむしり)も見落とせない。 エディプス水準では、分析者が誘惑にのって共感的受身性から外に足を踏み外すことはまずない。しかし基底欠損水準において分析者が自ら、受身的態度を放擲するならば、嗜癖の持つ危険きわまりない果てしない螺旋運動に足を一歩踏み入れることになる。ここは底なしの泥沼である。患者からの感謝というお返しがフシギな具合に欠如しているからでもあり、いくらでもねだる強欲性のためである。もし分析者が志操堅固に受身的態度を守り、一向動じないでいると、患者は「希望を持てない」と言って治療を中断してしまうか、患者と分析者が延々と苦闘を続けたあげく患者は分析者を攻撃者と感ずるに至り、この攻撃者と自己を強制的に同一化させられるようになるだろう。〜