去年の秋くらいに買った石化ひのきは、枯れているのか?いないのか?全く分からず(笑)でも、毎日、水を与え続けています。
生きているのか・死んでいるのか?全く自分と同じような感じもしますので、余計にかわいく思えるのでしょうか?
日のよって、緑になったり、茶色になったり見えるのは、何故でしょうか?今日は、その中間に見えました。
今日の夜勤明けは、直ぐに帰宅して取り敢えず寝ました。13時30分くらいに電話で起こされ(笑)それから、ぼーっとした頭のまま、取り敢えず、今課題にしている曲の練習をしました。不器用なので、アレンジは頭の中で組み立てられるのですが、技術的に拙いので、さらっと弾けるようになるまで、時間がかかります。簡単なアレンジにしたり、簡単にアレンジしてくれている楽譜を参考にしても良いのですが、変なこだわりがあって(笑)響きが良くて、弾き心地の良い音の繋がりや重なりを探していきます。
本は、今日はまったく読めていませんが、貯金が3つあるので、余裕です(笑)
下記は、一つの答えを頂いた気がしました。ウィニコットの言う“ほどよい母親”の事のように思います。
結局、タビスットックの、乳幼児観察は、基底欠損領域にも応用が出来ると言うことでしょうか?それの本も読みたいなと思いました。
『次の問題は、これらの患者の治療のために今なされているのはどんなことか、である。全体としてみれば分析者は先述の母親類似の行動をとっている。言語選択にあまり気をつかっていないようにみえる。自分のことばで話しているというが、自分のことばとは真実は“母親”のことばである。“分析者としての小児期”に習ったことばだからである。』
バリントは土居健郎先生の「甘え理論」で通じ合っていた、という事は、皆さん既知のことと思われます。
下記は、中井久夫先生のあとがきの引用です。
『〜ここで土居の「甘え理論」との類似点は明白であり、事実バリントは土居の理論を欧米でもっとも早く認めた人となる。一次愛はほとんど“甘え”――少なくとも歪められない(arglosな!)形態――であり、“認識されること”のもつ重要性は土居がエンパシーの訳語とした“気持ちを汲むこと”にきわめて近いであろう。本書には、治療者(あるいは母親)は患者(あるいは子供)の一次愛に対して自己を一次対象としてさし出すのであって、治療者(あるいは母親)が一次愛をむけるのではないとわざわざ念を押した箇所があるが、キリスト教文化における“愛”概念からすればこれはまことに起こりやすい混同であろう。しかしここで一次愛を土居の意味での“甘え”と置き換れば混同はまず起こりえないだろう。〜』
明日は、カーグとバンドの日です。もしかしたら、ピアノの先生が見に来られるかも知れないので、ピッチが一番合ったギターを持って行くつもりです。
お天気が今一つみたいですが、時間ごとの予報を見ると、移動時には雨が上がっているようです。予報が当たれば、皆さん助かります!
〜ここで一つが主張があろう。フロイトが、われわれにかなり良質良能の言語をさずけてくれたではないか。分析者なら誰でもたやすく理解できる言語だ。これを標準“古典的”精神分析言語として受け入れようではないか。以後改革をもくろむものには、フロイトの言語と自分の言語とがどこでどうちがうかを明白とする辞典と文法の編纂を要請しようではないか。――この提案は実にもっともに思えるが、受諾不能であろう。第一章から第三章にかけて示したように、フロイトの古典的研究はエディプス複合をあまり離れないのに対して“現代的”用語はすべて基底欠損領域に関する発見の叙述の試みばかりだからである。したがって、“現代”分析用語による臨床所見の叙述とフロイトの“古典的”叙述との比較は不可能である。“大将”はなくて“同階級の者”ばかりである。いかに不愉快でも、この事実をお互い認め合う外はない。 治療実践にとってはこういった結論のほうも重要である。たしかにいつでも相互理解可能と限らぬにしても、それぞれ異なる分析用語の存在は、治療がエディプス水準に留まっている限りは無視できる。〜
〜基底欠損領域でのわれわれの立場は未開部族を訪問中の旅行者の立場に似ている。その言語はまだ判っていず、風習もまだ直接の目撃者がいない。客観的なことばでの報告はさらに乏しい。調査者の仕事とはこの部族の行動の重要部分に注意を向け、その重要性に応じて人にわかる言語で叙述することである。通訳と調査者との二重の仕事を避けるわけにはゆかない。学門の進歩に貢献したかろうと単に自分の患者の役に立とうと思うだけであろうと、事は変わらない。 治療を目的としても学門を目的としても、観察した現象の意味を成人言語に訳す仕事は成人の語彙と文法があってはじめて可能だが、そういうものはエディプス水準以外には存在しない。現在知る限りでは無意識はわれわれか普通言う意味での語彙を持っていない。無意識の中にも単語はあるけれど、どんな対象の代表像にもなりうるものにすぎず、成人言語になってはじめて獲得する象徴機能をまだ荷っていない。画像、イメージ、音響に近く、やすやすとその意味が変わり、相互に融合する。夢の中で起こるのと同じである。無意識では、語が、輪郭と色彩の曖昧さを持ち、夢中のイメージにひとしいので灰色の中にある灰色である。はかない情動や感情を多量に備給されていても、成人の言語と違って、明確な定義された簡潔な用法には適さない。 次の問題は、これらの患者の治療のために今なされているのはどんなことか、である。全体としてみれば分析者は先述の母親類似の行動をとっている。言語選択にあまり気をつかっていないようにみえる。自分のことばで話しているというが、自分のことばとは真実は“母親”のことばである。“分析者としての小児期”に習ったことばだからである。分析者は調査者の通訳の上に、教師役をも引き受けているから、患者はどうしても分析言語の数ある方言のどれか一つを身につけてしまう。すでに述べたとおり、分析言語には数箇ある。どの精神分析学派も自分の分析言語を発達させたからである。 次章以下で私は分析言語をいくつか叙述してみよう。私がそうするのは主に分析言語が退行患者への分析者の反応をどう助け、また逆に反応の幅をどう限定するか。知りたいからである。そして終わりに、どの反応にも危険性が内在することを示したいと思う。