うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

藤の花と、【過去においてわれわれが全然ためらいもなく“古典的”技法の範囲を越えて視野と拡大させたことがあるのを思い出そう。それは小児分析である。】


今日は、午前中は自分の受診で、夕方の身体に障がいをお持ちの方の入浴介助等してきて、帰宅してきました。
学齢児さんの入浴介助まで時間があったので、まさき君と周辺を散歩しましたら、はなのき広場の藤が咲いていました。
 毎年書いていますが、藤の花を見ると、京都の工房の近くの竜安寺の藤を思い出します。
まとまった休みが、年末年始しか取れなかったので、昼食を食べに行ったついでに観光客が沢山いた、竜安寺に見に行きました。
 静かな時の方が、竜安寺の庭園はいいのですが、花が沢山咲いている時期は時期で良かったです。
現在も、長期のお休みが頂ける仕事ではないので、今日は良い散歩でした。



 本は、受診待ちに読みました。大分進んでいて、少し前に打ち込んだ箇所は、復習になって良いですね。

 下記の3か所を読んでいて、重度行動障害の研修を思い出します。症例は、ほぼ自閉症スペクトラム(現在は発達障害の範疇)。自閉症の方は、はまれば簡単にことが進んで行くので、話としては、落ちがつくので短期間の研修向きだとは思います(皆さん、加算関係の為に、受けられていると思われます。自分もそうでした)が、ダウン症の方の一部にある、頑固さ、てんかん発作をお持ちの方々の生きづらさ、その他の障がいでの(おそらく基底欠損領域の)困難さは、研修で受ける以上の困難さがあります。
それを本当の意味での解決方法を見つけて行く作業は、よっぽど感覚が鋭く、洞察力もあり、粘り強くもないとできる事ではありません。
 下記のように自分たちが、自分たちの能力にあった、方々を引き受けるだけなら簡単な、ありがたいことなのかもしれませんね。でも、そんな簡単な事ばかりしていて、仕事として面白いのでしょうか?と思いました。

『したがってまず問われる主問題は、患者の“治療可能性”でなく、患者の“精神分析可能性”ではあるまいか。換言すれば、この分析の得るところのあるなし、である。多少意地悪だが、ここで問うている問題は、患者が分析者に満足を与えてくれる見込みがあるかどうかだ、とさえ言えまいか。』
『このシンポジウムが行われた原因は多分もう一つあって、それは一部の分析者が予後不確定な患者を受け入れたくない気持ちを正当化する必要を感じたためらしい。』
『過去においてわれわれが全然ためらいもなく“古典的”技法の範囲を越えて視野と拡大させたことがあるのを思い出そう。それは小児分析である。新しい治療の場に適合する新技法が編み出されねばならなかった。』
 でも、一人では、出来ない仕事なので、どこかに妥協点を見つけるか、何とか、その方の特性を文章にすることが出来て、ほぼ支援が出来る状態に(マニュアルは、その日やその時間での出来事に影響されるので、完全には無理)させて頂いてから、出来そうな方と、時間をシフトするしかありませんね......。
 その仕事が自分の仕事と思い、やらせて頂いています。



第一六章 古典技法とその諸限界
 精神分析者の一部は“古典的”分析言語を用いている。これはフロイトに由来し、元来エディプス水準に属する治療経験に立脚するものである。この種類の治療体験は、以来通常の成人言語をわずかばかり修正したもので表現されてきた。こういう分析者が“性器段階以前の”体験を無視しているわけではないが、性器段階以前の体験をも等しく成人言語で表現している。つまり性器段階以前の体験もエディプス水準にまで引き上げている。 換言すれば、この種の分析者は退行への分析者の反応(なかんずく解釈)を、エディプス水準の葛藤への対処の際に信頼性証明済みの反応のみに限定しようとする。そして、この慎重な技法をもってすれば、患者を退行から引き上げ、患者が過去には所有していた関心の残存部分を動員させ、患者を現実生活における三角関係に、また性の口唇的、肛門的、性器的などの各種形式に惹きつけるようにできる、と考える。こういう慎重な分析者が見落としているのは、この技法によると強いて患者を治療の全経過中エディプス水準におしとどめるか、あるいは短期間だけ心の他の領域に退行しても速やかにエディプス水準に戻るように強制するのではないか、という問題である。この方法にしたがえば基底欠損水準領域に属する現象の大部分はおそらく去勢コンプレックスかぺニス羨望と解釈されるだろう。この解釈が当たっても二次的因子を一つ暴きだすのがせいぜいだ。この解釈は基底欠損自体に発する因子すべて無視するので、一部症例では治療上無益な解釈であることが暴露されてしまう。たしかに、こういう治療者も望みどうりの結果を得ることはできるが、しかし、慎重に患者を選択して受け入れてのことだ。


〜ある患者を治療対象に選ぶとき、精神分析者でさえ、意識的な、明言しうる概念と基準だけでなく、ある種の無意識的期待にひかれることは当然であろう。したがってまず問われる主問題は、患者の“治療可能性”でなく、患者の“精神分析可能性”ではあるまいか。換言すれば、この分析の得るところのあるなし、である。多少意地悪だが、ここで問うている問題は、患者が分析者に満足を与えてくれる見込みがあるかどうかだ、とさえ言えまいか。他の分野ではいざ知らず、教育分析における被分析者選択にはこの種がことが大いにありそうである。むろん“古典”技法派だけでなく、どんな思想の学派にもあるだろうことは付言せねばなるまい。 むろん、そういうことが全部あったからといって、選択が本来的に悪であることを意味しないので、その逆こそ正しい。私が強調したいのは、技法の種類と選択基準との相互依存関係である。この基本点を無視したために、とくにアメリカで(1960年、1963年)“精神分析可能性”についてのシンポジウムが開かれながら結局不毛に終わったのである。このシンポジウムが行われた原因は多分もう一つあって、それは一部の分析者が予後不確定な患者を受け入れたくない気持ちを正当化する必要を感じたためらしい。もう一度言うが、もし患者選択さえ慎重になされたならば古典的分析言語を用いて得られる成果はすばらしいものだ。 これと密接に関連した問題として“古典的分析”に不適だと宣告された症例に使用できそうな、非古典的だがやはり力動的な別の精神療法を案出するという作業をしなければならないことがある。この任務は“乱暴”な分析者や折衷派や一般精神科医や信仰者にゆだねざるをえないのだろうか?過去においてわれわれが全然ためらいもなく“古典的”技法の範囲を越えて視野と拡大させたことがあるのを思い出そう。それは小児分析である。新しい治療の場に適合する新技法が編み出されねばならなかった。小児分析のパラメーターの一部は根本的に“古典技法”のパラメーターと違っている。ちょっとどぎつい例を出そう。三、四歳の小児の治療では、どんな分析者も、小児の排泄機能の手助けに呼ばれることは避けられない。成人患者相手ではほとんど考えられない状況で、アイスラー流にいえば、確かに不可逆的パラメーターになってしまう。この基本的相違があってもわれわれは、小児分析をたとえば教育心理学者にゆだねないで自分の背に荷っているではないか。これは教育学と児童心理学、児童精神医学の役にも大いに立っているし、何よりも精神分析それ自体の利益である。当時から小児分析は特殊分野とされたが、しかし精神分析という全体の欠かせぬ一部であることには変わりはない。