うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

お化け屋敷大会と、まーちゃんVSたくちゃんと、【現在の医学思想に押し流されて、医者は“患者には訴える能力があるという事実”の大切さが分からなくなっている。】


 今日は、休みのはずが(笑)中抜け勤務になりました。
遅番で、入浴介助・食事・整容等が終わり、一息つこうとしていたら、たくちゃんが、非常用のカンテラを見つけて、電気を消して、お化け屋敷ごっこを始めました(笑)


 段々、皆さんが盛り上がってきて、カウンターの向こう側から、食堂の方にたくちゃんが攻めて来たら(笑)、まあちゃんが、火の玉を放出して(ドラゴンボールではなく、火の玉だとの、まあちゃん談w)



 たくちゃんおばけを、見事に退治しました(笑)

 一行は、玄関まで進み、まりちゃんまで懐中電灯を出してきて(笑)盛り上がっていました(笑)
 今日も、愉しい一日を与えて下さり、皆様、本当にありがとうございました!

 女性職員達には、もっと怖い物を送っておきました(笑)


 本は、朝、早めに出てと、昼食時にファミマで読みました。
アップは、貯金です(笑)が、一番最後に出て来る、下記は、何年、何十年やっていても、全然成果が上がらない支援者や施設の事を述べている感じがしました。

『こうして螺旋が無限に延びる。患者が訴えて。分析者のエディプス水準あるいは“エディプス段階以前の”水準の治療に有効と思った方法で解釈する。しかし現実を変化が起こらない。分析者の内部で罪責感と挫折感が強まる。患者の内部でも強まる。そこでまた患者は訴えをつづける。治療者は頭に来て解釈を下す。解釈は一つ前の解釈より賢明で深遠な解釈となる。これが果てしなくつづく。』

 順番が前後しましたが、下記は、重度の利用者さんでも、訴える能力があるので、膝を突き合わせるように、毎日過ごさせて頂いていたら、何かが見えて来ます。それは、大きな湖の時もありますし、細い糸の先端の時もあり、大きな湖の時には、そこに入って、浮かんでみるのも良いし、糸の先端の時には、そっと且つ早く引っ張って、繋がっている事象を順番に見て行けば、その何かが分かる時もあります。粘り強くするしか、解決の方法は(的を得た)ありません。魔法もありませんし、いきなりそんなことが出来るのは、まぐれかもしれないし、魔術的になっていたり、高圧的に解決させているだけです。

 『現在の医学思想に押し流されて、医者は“患者には訴える能力があるという事実”の大切さが分からなくなっている。』 


 雪舟を知りたいなら、雪村から入れ。という言葉がありますが、ハリー・スタック・サリヴァンを知りたければ、中井久夫先生から入れみたいに、フロイトを知りたければ、バリントから入れ、を現在の自分は痛切に感じています。今回のアップとは、あまり関係がないのかも知れませんが、この本を読み続けていると、基底欠損水準の方には、一次愛が必要なのか?と、思い出してきました。意識しないで、与え続けることが、自分の現在の頭の中での、一次愛です。間違っていたらごめんなさい(笑)
 だから、ウィニコットのいう、ほどよい母親というのは、母親は、一次愛を与えられるからで、ほどよいというのは、与えすぎると、依存が強くなってしまうので、ほどよく与えるという感じがしています。これがもし、答えなら、他人に教えるのは無理ですね(笑)自分は、産みの母親から一次愛を受けた記憶がなく(これも防衛機制で無意識レベルから出せないのかもしれませんが)継母にそれを与えてもらった感じがします。
 自分は人に教えるのが苦手です。それはきっと、産みの母親が、スパルタで、何かを教えるのに、非常に強い口調で言っていました(勿論、自分にも)ので、その転移かも知れませんが、自分も人に教える時に、強い口調になってしまうので、その後の自己嫌悪が半端ない(笑)ので、教えるのは止めようと若い時分から心に決めています(笑)まあ、教えるほどのことが無いのも事実ですが(笑)
 今回のアップは、反省しないといけないことだらけやな〜と思う箇所だらけでした......。



 〜このやり方には予期せぬ副作用があり、われわれと一般開業医が一緒に勉強した時にも、最近、専門家と一緒にした時にも、絶好の例が際会した(M・バリント、一九五七年、一九六一年)。副作用の大部分は、患者の訴えを“組み立て”て歴とした病名を持ち分類表中に位置付けうる一箇の疾患に仕立てあげたい、抗し難い衝動に駆られることである。それを手早くやって退けられない場合はなかった医師ばかりか患者も落胆し途方の暮れる。逆に訴えを一箇の対処可能な“疾患”に“組み立て”られない場合で、患者は“君にはわるいところはない”と言われる。こう言ってしまうと、片方は、自分に具合が悪いところがあると感じている患者で、もう片方は、患者の訴えから文句なしの病気を組み立てるに十分なものを発見できないが善意あふれる医師となり、二人の間には無際限に摩擦と焦慮が生じるようになる。現在の医学思想に押し流されて、医者は“患者には訴える能力があるという事実”の大切さが分からなくなっている。 大部分の分析者の心中には“組み立て”て疾患を作りたい凡そ同一の衝動がうごめいていると思う。これは何としてでも自分の患者の訴えを分かりたい、そして患者に訴えを止めさせたい強迫である。たしかにわれわれは程度の差はあっても次第に“疾患”なる概念は捨てて来ている。しかし、われわれは訴えや症状を“組み立て”てわれわれの序列上できるだけ“発達初期”“できるだけ深部”に存在し、歴とした名称と位置づけを持つような“葛藤”や(クラインの意味での)“position”に仕立てたいという類似の衝動に駆られなかったであろうか。たしかにわれわれは、一般医師のようには、鎮静剤、精神安定剤抗うつ剤などを患者に出さない。しかし、たぶんそのために、われわれはいっこうに弱まらない訴えにはいっそう耐えにくい。それについて何かを行い、訴えを止める何かを患者に与えたいためにわれわれは解釈という手段に訴える。そして、解釈が訴えを止めなければ、われわれは非難をどこかにぶつける。自分の技法がよくないと自分にぶつける。患者の病気は不治だ、患者は破壊的だ、退行が深い、自我が分裂している、などと患者にぶつける。周囲の人たちにぶつける。とくに、理解がない、育児が共感的でなかった、と患者の両親にぶつける。この目的で昔が犠牲の山羊が最近復活したらしい。遺伝のことである。こうして螺旋が無限に延びる。患者が訴えて。分析者のエディプス水準あるいは“エディプス段階以前の”水準の治療に有効と思った方法で解釈する。しかし現実を変化が起こらない。分析者の内部で罪責感と挫折感が強まる。患者の内部でも強まる。そこでまた患者は訴えをつづける。治療者は頭に来て解釈を下す。解釈は一つ前の解釈より賢明で深遠な解釈となる。これが果てしなくつづく。