うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

桜と、【なぜなら、このヒントによってこうしたプロセスでの変化していくニーズ、すなわち空間を求めるニーズや堅固な態度を求めるニーズなどの変化に気づけるからです。】


 今日は、休みで自分の受診に行って来ました。
夕方戻って来てから、ひーひー王子の散歩に行ったら、昨夜より桜の花が大分咲きだしていました。強風が吹いていて、花粉症がまたひどくなってしまいましたが(笑)、満開が待ち遠しいですね!
 写真は、ほぼ昨夜と同じ場所です(笑)



 本は、そうか、休みでしたが、早番さんが体調不良でお休みになったので、6時半から9時半まで現場に入りました(笑)今、思い出しました(笑)
掃除と洗濯が終わって、最後の乾燥機が終わるまで、休憩がてら読んでいましたが、受診の時間が迫ってきたので(笑)9時半に乾燥機をほったらかして豊橋まで慌てて行きました。続きは受診待ちに読みました。


 色々と勉強させて頂いていますが、今回は、今、現場で起こっていること(夜間でではありませんが)を解決していくのに大きなヒントをくれた気がしました。
『もちろん、大人の患者へのニーズは両親と一緒にいる子どもたちや、あるいは治療者とともにいる子どものニーズとは違っています。けれども、そのダイナミクスはとてもよく似ています。同じように、断固とした態度や対決が求められるときもあるでしょうし、また分析家は、ニーズが生じてきたときにそのニーズに合わせていかねばなりません。』障がいをお持ちの方々は、エディプス・コンプレックスをきちんと通過できていなかったり、腫れ物に触るように扱われて来られた方が多く感じています。この文章は、そんな時に使用できるものと思います【断固とした態度や対決】 が必要で今ここでそれを行使しないといけない場面も良くあります。





3,より広い文脈から見た精神分析技法
私にとって精神分析技法にかかわる多くのものはとりわけ,ある種の精神分析技法とウィニコットによるあらゆる年齢の乳幼児や子どもの観察との比較から進展してきました。 たとえばウィニコットは乳児は生まれたその瞬間から、意味を持つようになる「対象」と、生まれたばかりではいまだ意味を持っておらず、そこにゆえ侵襲として経験されていくものとを識別する能力をすでに持っているのに気づきました。さらに、乳児が乳房を発見していくために必要であり、乳児が経験している飢餓との関連で乳房を見つけ、授乳してもらう心準備ができるようになるための「ためらいのとき」(Winnicott 1958:4章)の重要性にも注目しました。乳児がためらいのときを与えられないとしたら、続いていかなる授乳がなされようとも、その授乳は服従になってしまいやすいでしょうし、情熱や生命感を欠いたものになることでしょう。彼はまた、母親が赤ちゃんにお乳の与えるという目標を達成しようとして乳児のおしゃぶり反応を搾取する場合には、乳児は性欲的に誘惑される、とも気づきました。
 では、これらの観察がどんな含みを精神分析技法に持つのでしょうか。もちろん、患者は乳幼児ではありません。分析家にはそう思われているかのような解釈を耳にすることもありますが、退行している患者でさえも母の胸に抱かれた乳児と同じではありません、しかし、解釈のしかたはどんななのでしょうか?解釈は提示されるofferedのでしょう。。それとも投与されるgivenのでしょうか。さらには、解釈があまりに強引に投与されたとしたら、患者の反応はどんなものでしょうか。本当に噛み合うようになっていくでしょうか。あるいはむしろ、不健全な迎合的服従を引き起こすのでしょうか。もしくは(もっと適切に)、服従よりもはるかに健康な反応であろう、与えられているものへの抵抗をかき立てるのでしょうか。



 もちろん、大人の患者へのニーズは両親と一緒にいる子どもたちや、あるいは治療者とともにいる子どものニーズとは違っています、けれども、そのダイナミクスはとてもよく似ています。同じように、断固とした態度や対決が求められるときもあるでしょうし、また分析家は、ニーズが生じてきたときにそのニーズに合わせていかねばなりません(Winnicott,1971b:11章)。しかしここでも同じく、両親といるときの子どもの発達的なニーズと分析家といるときの患者の心的情緒的ニーズとのあいだに引き続き類似点が見られます。うまくいっているときには、子ども/患者こそが、いつ、何が必要とされているのかを知らせてきます。そして堅固な態度を求めるニーズも、その限界の在処を吟味していく過程で、患者から知らされるのです。けれども私はここで、欲しいものwantsではなく、ニーズ/かなえられる必要のあるものneedsについて話しているとのことをはっきりさせておきたいのです。 こうしたわけで、患者が私たちにたびたび与えてくれるヒントへの注意を怠らないようきちんとこころがけていられるのなら、私たちが患者に耳を傾けるりこと、さらにはそのプロセスについていくことがとても実り豊かになるのです。なぜなら、このヒントによってこうしたプロセスでの変化していくニーズ、すなわち空間を求めるニーズや堅固な態度を求めるニーズなどの変化に気づけるからです。 ゆえに誰よりもウィニコットによって私たちは、解釈で伝える内容と同様に解釈のしかたをじっくり考えてみるよう、うながされていると思います。そして、ひとつの解釈にもさまざまな性質かありえますし、患者からはそのそれぞれが分析家からの無意識のコミュニケーションとして、さらには分析家のその人についてのコミュニケーションとして受け取られもするでしょう。また、分析家だけが患者を読み取ろうとしているのではないとのことを私たちは覚えておく必要があります。患者もまた、鋭く分析家を読み取ろうとしているのです。したがって患者が一緒にいる人物(訳注:治療者のこと)について、私たちの解釈のしかたに認められるサインに注目しているとのことにはなんら驚くべきところはありません。




解釈は、以下のどれかの性質を持ちえます。すなわち、批判もしくは非難として、操作あるいは指示として、侵入性または誘惑という性質です。解釈は患者への軽蔑ともなりえますし、ほかにもさまざまな性質を持つのです。ですから、いったい分析家はどういう人物だろうかと患者が思い始めるのも不思議ではありません。つまるところ、誰がこんなふうに話してくるでしょうか。それゆえしばしば患者は、分析家の介入の性質を無意識的に、いや意識的にさえ読んでいきながら、一緒にいるその人物について、たくさんの情報に基づいた像を作り上げるのです。ゆえに分析家は、フロイトがよく示唆したような真っ白なスクリーンには決してとどまれないのです。むしろ分析家は述べてみたようなやりかたで患者を取り扱いかねない人物として見られるのです。