うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

桜と、増築工事中止と、【貫通されることへの抵抗のように、けれどもこの深い抵抗は、さながら「レイプ」のように精神的にむりやり押し入れられることへの健康な拒絶とも見られるでしょう。】


今、ひーひー王子との散歩に行って来ました。
小学校の前の桜が本格的に咲き始めていました!
 土筆も沢山出ていて、春ですね! 少し寒いですが........。


 荒天で、増築工事が中止になりました。少し中に入って写してみました。






 本は、早めに出て、ファミマ(笑)で読みました。
コーヒーを飲むだけなのに、店員さんは親切で、おしぼりも出してくれます。




 この本全体に言える事ですが(えらそうw)、自分を見つめ直す機会を沢山与えてくれますし、下記の様なヒントも沢山あるので、本当に勉強になります!
『とりわけこのようなときに、セッションのなかで患者への試みの同一化を行うことを私は高く評価するようになっています。試みの同一化の実践あるいはこの技法は、私が自分自身を批判的に見たり、とくにある特定の概念が知覚しそうな感覚から生まれた自分がまさに今言ったことあるいは言おうと思っていることを患者の立場から考え直してみるのを援助してくれます。』
 同一化が、その方の心の中に入るのには、一番の近道ですが、支援者の方が立派過ぎるのか?同一化する気がないのか?色んな現場にいてもそんな感じがします。


2,精神分析史からの有害な残留物
 フロイトの書いた臨床解説を無心に読んでみるなら、フロイトが自分の理論を証明したがったり、実例を見つけ出そうと望んでいるときがあるのに気がつかないわけにはいきません。そのためフロイトに同意しない患者は、抵抗しているといつも非難されたのでした。そして、抵抗に打ち克つ必要が患者には明らかにあるという名目でフロイトは、患者を圧迫し続けることを正当化しようとしてきたようです。つまるところ、分析家はいつも正しいと結論づけられます。あるいは少なくともフロイトは、自分が選択することはいかなるときでも正しいのだととらえていたのでした。そしてこの姿勢が分析の実践において重大な落とし穴を残しているのです。今日ではこの落とし穴はそれほどたびたび生じていかなるのではないと思いますが、それが生じてしまったときには、もっときちんと自分に耳を傾けてもらえると患者が望める道が存在するべきです。
 残念なことに(フロイトのように)分析家の多くが、自分の位置はみずからの確信さによって保護されているとみなしているようです。さらにそれは、まちがっている可能性からみずからを引き離してしまう多様な抵抗解釈によってますます防御されるでしょう。
 他者についての私たちの(仮の)理解やあまりに確信しすぎるという罠に私たちはさまざまなふうにはまってしまうようです。実際に見て見ましょうと分析家や心理療法家は、つながりをつけるエキスパートになっていきます。私たちはほとんどあらゆるものを、なんでもかんでもとつないでいくことができます。そのうえ、そのつなぎ方がどんなに大胆で荒っぽくても、こころのつながりを裏づける理論をいつでも使えます。そうして、このつながりがうまく噛み合わないときには、患者のほうが私たちが見方にとてもうまく則ってのなんらかの防衛的思考を用いていると決めつけるのです。たとえば:

・患者が真実として語っているものの反意を見たいと望むときには、逆転reversalという点から私たちは考えます。 
・問題を「あそこ」よりも「ここ」として伝えたいなら、患者の東栄もしくは置き換えを使っていると考えます。
・私たちが焦点づけしたい論点が患者からは話されないなら、回避avoidanceという私たちは考えます。
・私たちを居心地悪くさせているものに対して患者が私たちを非難するのなら、とくに、それが私たち自身についてのなんらかの受け入れがたい真実に触れていそうなとき、私たちはそれを転移または投影同一化と呼びます。
・捜していた時間のつながりは見つかったが、それが出来事の再浮上とは矛盾し噛み合わないとき、私たちは無意識の無時間性timelessnessについて語ります。
・患者が私たちの作り上げているつながりがしっくりこないと主張するなら、否認あるいはスプリッティングの概念を持ち出すのです。

実際、ほとんど私たちは理論が使えますけどそれにもかかわらず、私たちがまちがってしまう、それもひどくまちがってしまうときは必ずあるのです。もちろん私たちはそうならないように努めていますし、患者を誤解しないでいられるのならずっとよいでしょう。しかし、私たちの作業スタイルがあまりにも確信に満ちているものであるなら、分析家がまちがっているとき(とくに分析家が誤りを認めてられなかったりを認めるのを渋るときには)、そのスタイルが現実の問題となっていきます。 しかしながら、分析家に率直にまちがいを正す気持ちがあるのなら、そこに患者からは利用できるまったく違った性質の安心が生まれます。それはあやまちに直面したら砕けば落ちそうになるならもろい安心のあやまちではない、もっとはるかに弾力のある安心が見出だされるでしょう。この安心は、分析家はたとえ患者によってであったとしても正されうるのだと患者が発見したことから生まれた安心なのです。さらに考えてみるなら、あまりに確信を抱いている分析家もまた、患者や意見の合わない道理が向けてくるありそうなあらゆる脅かしに対してのもろに安心を防御しているのです。 それにもかかわらず、それでもいまだときどき貫通するものとして語られる、いわゆる深い解釈を耳にします。貫通されることへの抵抗のように、けれどもこの深い抵抗は、さながら「レイプ」のように精神的にむりやり押し入れられることへの健康な拒絶とも見られるでしょう。ですから私は、分析家についての患者の体験に目が開かれ続けている必要がありますし、患者のなかに私達が観察するものは、私たちの分析家としての患者への対応のしかたによって生じている反応でもありうるとのことを覚えておく必要があります。 したがって患者に観察するものに関して、私たちがこころに留めておかなければならないいくつかの異なった見方があるのです。しばしば、患者は私たちが言っていることだけではなく、そう言っているその言い方にも反応しています。言い換えれば、私たちがどのようにして患者を見ていてそうなのか、そしてどのようにかかわっているのかに対応しているのです。


 〜幸せなことに今日では、分析関係への相互作用的で対人関係的な次元がかなりきちんと考慮されるようになってきています。というのは、もし私たちの仕事を分析するだけと見続けてしまい、関係における私たちの話すことの患者にとっての含みに目をつぶったままなら、たやすく私たちはこの相互作用的な見方を見落としてしまうでしょう。こうして分析家の作業のしかたに応じて実際に生じてくる反応は、採っている解釈的な考え方を証明していると分析家に見なされてしまうでしょう。 とりわけこのようなときに、セッションのなかで患者への試みの同一化を行うことを私は高く評価するようになっています。試みの同一化の実践あるいはこの技法は、私が自分自身を批判的に見たり、とくにある特定の概念が知覚しそうな感覚から生まれた自分がまさに今言ったことあるいは言おうと思っていることを患者の立場から考え直してみるのを援助してくれます。分析的な相互作用についてのこの見方は、私たちがいとも簡単に分析の思わぬ落とし穴に落ちてしまわないように騒動支援してくれます。この種の予防措置がないと、精神分析はひとりよがりの証明になってしまう危険性をいつでもはらんでいます。〜