うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

鬼ゆずと、チャリティー用の絵と、『日系人の精神分析』と、『メラニー・クラインの影響Ⅱ』


 名古屋に行った帰りに寄ったサービスエリアで、鬼ゆずが売っていました。
見るだけにしましたが、画題には良さそうでした。
 大きなものは、何かを吸い付ける力がありますね!

 先日、神戸館さんにチャリティー用の物を搬入していたら、地元の画家さんがチャリティー用の絵を持って来て下さったので、額は自分達で用意させてくださいとお願いし、持って帰って来ました。時間を見つけて額屋さんに行って来ます。

 
 今日も用事と用事の間に本を少し読ませて頂きました。
精神分析の都』で下記の文章があり、以前から自分もそう思っていたので(偶然ですがw)アップさせて頂きました。
 福祉の現場いても、本当にそう思います。

『一人一人の子が社会に入っていく過程で、どのような心的葛藤をかかえているかについて考えることを、教育者は全くしていませんし、また、するための訓練もできていないのです。会社も同じです。』 特に上記の部分が一番福祉職にも欠けている部分ですね.....。せめて転移・逆転移の勉強だけでもしてほしい......。

精神分析の都』より
日系人精神分析
〜一般に、日系人の日本社会についての知識は、極端に理想化されていたりして正確を欠く場合が多いが、日本に住んだことのあるもうひとりの精神分析家キョウコ・サクガワは、日本社会について次のような感想を持っている。

 私は日本に行くまでは、ずいぶん甘い期待を持っていました。父から聞かされていた日本は秩序と道徳の国であり、人々は限りなく親切だというものでした。しかし、実際の日本社会には、驚くほど失望させられたのです。私の専門の立場から言わせてもらえば、日本社会は心理的配慮というものが欠如していると思えます。たとえば、学校教育では、勉学意欲をどのようにもり立てるか、それを心理学的に検討しているとは思えません。
一人一人の子が社会に入っていく過程で、どのような心的葛藤をかかえているかについて考えることを、教育者は全くしていませんし、また、するための訓練もできていないのです。会社も同じです。仕事をしながらでも、人間的感情を表出することができたら、もっと仕事は楽しくなるでしょうに、そういうことが現代日本社会では不可能みたいです。会社が、社員の健康管理においても、心理的な面を真剣にとらえようとしないのは、納得がいきません。総じて言えば、現代日本には、真に生産的な精神が不足していると思われます。もし、日本人がこのままの状態をつづければ、やがて大きな危機をむかえるのではないか、と心配です。日本を支えてきたのは伝統が生んだ生産的精神だと言えるならば、その精神を再び活発にするには、国も知識人も一体になって精神衛生の重要性について真剣に考える必要があるでしょう。私は、祖先の国のために自分が何かできないかと考えることがあります。精神分析を日本人に適応させて、学生や会社員がサウナや指圧に行くように、分析を受けるというような具合にはいかないものでしょうか。日本は大国であるだけに、世界に影響を及ぼすのです。日本人の精神が狂うことは、日本人を不幸にするばかりか、世界を不幸にするということが分かってもらえるでしょうか。〜




 こちらは、早朝にマックでコーヒーを飲みながら打ち込んでいた箇所です。
『ほとんどの精神病患者は墜落や断片化することへの圧倒的な不安を体験しているか、あるいはこれらの不安の出現に対してさまざまなやり方で防衛している。』
『墜落へのまたは断片化への不安や感覚が精神病患者の核心である。』
 断片化しないようにしたり、断片を一つに戻したりして、不安を取り除けば主体のない方の支援になりうるのでしょうか?お互いが同一化し合い、タイミングを見計らって、離れるというのが現在の自分の中での支援方法ですが、そのタイミングや同一化のやり方は、利用者さんそれぞれのパターンがあるので、フロイトのリピドーの考え方が合う方、ユングのリピドーの考え方が合う方が(大雑把すぎますが....)いるので、もっともっと勉強が必要ですね.....。




 メラニー・クラインの影響Ⅱ』 (治療の行き詰まりと解釈より)
〜精神病患者の治療における第二の一般的問題は、分析家が受け取った経験をどれだけ、どのような形で、いつ患者に伝達すべきかを考えなければならないということである。性的願望を解釈したとき、それが患者に誘惑として体験されたという例で、私は間違ったレベルでの解釈がひきおこす問題についてすでに述べた。もうひとつの差し迫った問題は解釈のタイミングについてである。分析家が理解したことをあまりにも性急に解釈しすぎて、その結果、患者は言われたことを自分に対する拒否として体験するという状況がある。投影性同一視によって、このような状況では、分析家は投影された感情を放出するものとして体験されるが、同様に分析家は患者をも放出排除する具体的存在として具体的に体験される。それゆえ、分析家は、患者に解釈を投与してよい時期を待つ間、自分のなかに患者が作り上げた感情をしばし保持しておくことを学ばなければならない。分析家はその間も患者の投影を見定めねばならないし、できるだけすみやかに自分自身へ向けて言語化しなければならない。そうしなければ、分析家は患者のコミュニケーションの詳細を理解できないし、いつ何を解釈するべきかを知ることができない。私の初期の症例で描いたように、精神病患者は大変具体的な思考をするので、投影に圧倒され、非常に簡単に混乱に陥ってしまう。その結果、このような患者との転移関係は常に揺れ動いており、コミュニケーションが破綻し、ひどいすれ違いが生じ、ひいては不安が増大し、行き詰まりに至る危険が大きい。したがって、技法の重要な部分のひとつは、患者が何を投影したいのかを注意深くそして明確に理解するよう試みることである。何が起こっているかが詳細に見えてきたら、分析家は患者のパーソナリティの別々の側面や部分を意味を持つようにひとつにまとめるように試みることができる。これらの部分はしばしば分裂排除された形で存在し、そのことが患者にとって自分自身を理解する妨げとなっているのである。このような統合された解釈は、患者が自己の精神機能を回復させ、自我を強化するのを助ける。これに比して、分析家に投影されたさまざまな部分を断片的に解釈するやり方は、単に混乱を増加させるだけである。

〜墜落へのまたは断片化への不安や感覚が精神病患者の核心である。これらは、新生児が母親の子宮の中で安全に抱かれている状態を断念しなければならないという出生状況における最早期の幼児の不安体験とおそらく関連している。だから早期の母親−乳児関係を、出生前にそうであったのとできるだけ近いやり方で母親に取り扱ってほしいという幼児のニードが優勢である状況、とみなすのは納得できることである。抱える環境についてのウィニコット(Winncott 1956,1960)の理論や、乳児のコンテイナーとしての母親に関するビオン(Bion 1963)の理論はこうした体験と関連している。ほとんどの精神病患者は墜落や断片化することへの圧倒的な不安を体験しているか、あるいはこれらの不安の出現に対してさまざまなやり方で防衛している。
 バラバラになって断片化するのではないかという精神病的不安の特質を考えると、精神病患者の治療において、患者に対する分析家の態度や共感がとりわけ特別な役割を果たすことが理解できるものとなる。私は指摘してきたように、精神病患者は不安や要求を主に非言語的または前言語的な形で伝達するし、分析家はそれを感受できなくてはならない。それゆえ、フロム=ライヒマン(Fromm‐Reichmann 1954)やウィニコット(1956,1960)やサールズ(1965)のような分析家は、実際には有害となるかもしれない言語での解釈よりも、むしろしばしば分析家の振る舞いによって精神病患者の要求を満足させるべきだとしている。例えば、サールズ(1965)は、患者と共生的に一体である時期を長時間作り上げることで乳児の共生的な要求を認識することの重要性を強調し、そのためには患者と共に沈黙を保てる能力が最重要だとしている。同様に、ナシュト(Nacht 1962)は、患者が想像上の母‐乳児関係を再び現出するためには、分析家の沈黙がいかに必要であるかを強調している。