うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

あいちアール・ブリュット優秀作品特別展と、ほど良い分析(ウィニコット)


 昨日、愛知県から、あいちアール・ブリュット優秀作品特別展の情報を、メールにて頂きました。
あまのっち、おかもっちゃん、ゆうこちゃんの作品が出ています。
こちらのサイトです!⇒http://www.aichi-artbrut.jp/event/event-1048
 撤収が最終日にありますので、ついでに見させて頂こうと思っていますが、なごやウイメンズ・マラソンがあるので、交通規制に引っ掛からないか?心配です......。
午前中仕事してから行けと言うお達しなので(笑)頑張ります。

 今日は、夜勤明け、市役所に書類を持って行ってから帰宅しましたが、ギターを弾いていたのか?書類を作成していたのか?ボーっとしていました。(笑)
いつも緊張感を持ってはいられませんから(笑)こんな日もあって良いですね!と自分を慰めています。
 曲はスイート・メモリーのアレンジに入りました。





 今読んでいる、ウイニコットは、ちょうど一年前くらいに読んでいた、北山修先生の本とダブっていますので、振り返って見たら、分かり易く、北山先生が書いておられた箇所の再掲にしました。



『錯覚と脱錯覚』(ウィニコットの臨床感覚)北山修
第9章 治療者のいるところで体験する事
4,ほど良い分析
 年齢に応じてほど良い成熟というのもがあるように、子どもにはもちろん、大人も病気の場合はその病状に応じたほど良いニーズの満足というものが認められなければならない。だからある人びとにとっては「やりすぎ」「甘やかしすぎている」という印象をあたえても、それがその年齢、発達段階、病態に対応するものであるという精神分析的理解に基づくものであれば、治療者の態度は一貫しているということができるのである。つまり、彼にとって分析家はその読者たちと共有する客観的地平から見える地図の中でいつも同じところにいるというのではなく、患者のニーズを推し量りながら、それに合わせて患者から見た限りにおいて同じ距離にいようという、つかず離れず寄り添いながらの「ほど良さ」を維持しようとしている。治療者は患者の主観からはいつも同じ距離にいて、そこに当てにできて役に立つものとしている「いつでも役にたてる母親always available mother」のように、患者の主観からのほど良い中立性であり、その中立の軸はやはり日常言語でほど良いと言われる程度までには良い方へ傾いていることになり、このことによってほど良い陽性転移が維持され続けることになる。つまり、それまではほど良く60%の適応はxだけ脱適応して‘60-x’の適応となるという「つりあいのとれた」感覚によりほど良い関係は維持される。逆に、患者がyの分だけ退行するなら、治療者は60%から‘60+y’の分だけ適応するのである。また、患者のキャパシティの発達に応じて、治療者はその分だけ脱適応して患者の自立への方向性が支持される、彼が「ほど良い分析家」の適応というときは、このような患者のニーズへの適応をさしており、そのためにはこれに応じている治療者は「分析家による非分析的な仕事」にまで着手せねばならないと言うのである。
〔これに「ついていけない」「とても真似できない」という治療者や分析家は、けっしてウィニコットを真似すべきものではなく、また真似などできるものではないとウィニコット自身が断っている。もし、患者のニーズに治療者が「ついていけない」程度まで合わせようとするなら、必ずそこに適応の不連続が生じることになる。そして、転移神経症や転移精神病における発達初期の原初的防衛機制を言葉で取り扱って、部分対象関係、被害的不安、発達初期への退行とされる思考障害などを母子関係のものとして言語化し解釈するクラインたちには、彼自身もついていけず、理解はしても実践ではその真似ができなかったのである。ついていけないものは、真似できないし、小児の心性にはついていけるところまで、母親のようにほど良くついていこうとしたのである。さらに、すでに一部の読者もそうであるかもしれないが、筆者にとって、ウィニコット理論の理解はできても、いやその理解もおぼつかないで、具体的な技法についていけないところがるるのは当然である。パーソナリティの異なる分析家が「十人十色」の患者を対象とする限り、対象を精神分析的に理解しようとする試みはどのような場合も怠るべきではないが、実践においては同じ分析家などいるわけがないし、同じ治療もありえないというのがウィニコットの強調するところなのである。〕