うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

茅の輪くぐりと、真夏日にみかん!と、【近年は、転移・逆転移の扱い方の変化によって、分析家は自分が「正しい」解釈を与えたかどうかに注意を払うよりは、むしろ患者、受け取り得る形で自分の理解を患者に伝えたかどうかに注意が向いています(Spillius 1988b 三章)。】



諏訪大社で、茅の輪くぐりがありました。
説明は、立札でどうぞ(笑)
 無事、療育キャンプも終え、後半戦も頑張ります!


 大家さんから、ハウスみかんをいただき、早速いただきました!
みかん大好き人間なので、早く冬が来てほしい(笑)


 今日は休みだったので、ちょっとゆっくりさせていただきました。
ジムが開くまでうたたね横のファミマで本を読んでいたら、何人かの知り合いに会いました。まあ、地元ですからね(笑)
 自宅では、中々集中して本が読めないので、ファミマかマックで読んでいます(笑)なぜか分かりませんが、集中出来ます。



 下記は、母親が乳幼児に対するやり方のように思えます。

『近年は、転移・逆転移の扱い方の変化によって、分析家は自分が「正しい」解釈を与えたかどうかに注意を払うよりは、むしろ患者、受け取り得る形で自分の理解を患者に伝えたかどうかに注意が向いています(Spillius 1988b 三章)。』

 現場で支援させて頂いていると、母性が必要な時と、父性が必要な時があるように思える時があり、意識的に使い分ける様にしていますが、それなりに効果が出ているように感じています。勿論、失敗することもありますが、失敗したらその反対をすればよいだけの時が多いので(母性・父性だけでなく、ウィニコットがいう第三領域や空間の提供などが必要な時もありますが、失敗したらそちらにシフトすれば良いだけだと思われますが)思考の軸がしっかりさえしていれば、酷くぶれることもなく、修正可能な気もしています。
 この章も、勉強になり過ぎるくらいです.....。



Bion は、Klein の消化システムとしての心のメタファーを取り上げましたが、しかし、さらに、母親は包容するものとして、あるいは包容し変形するものとしての機能を通じて、赤ん坊のために心的な消化の多くを行っていることを付け加えました。この研究に続いて、さまざまなやり方での心的あるいは情動的な「取り入れ」、あるいは取り入れの失敗に関する精神分析的な臨床研究が数多く行われてきました。たとえば、あまりに早く取り入れすぎたために、部分的にしか消化できなかった場合などです。Meltzerは、ある種の自閉症児の母親のもつ、「右の耳から左の耳へと抜ける」性質、ある種の聴覚上の消化の問題や心的消化の問題について記述しています。近年は、転移・逆転移の扱い方の変化によって、分析家は自分が「正しい」解釈を与えたかどうかに注意を払うよりは、むしろ患者、受け取り得る形で自分の理解を患者に伝えたかどうかに注意が向いています(Spillius 1988b 三章)。分析家は、また、実際に患者がそれで理解されたと感じたかどうか、どのようにそれを聞いたか、また聞いたかどうか、そしてそれをどうしたか、をモニターしていることでしょう。それゆえ、その正しさは、それがより精神力動的な意味あるいは一般的な意味において真実であるかどうかだけでなく、それが聞けるかどうか(hearability)という意味で問題なのです。患者は、それを取り入れたのか、それを自分のものとしたか、すぐにそれを吐き出したか、あるいはそれで傷つけられたと感じ、結局、全くそれを摂取することができなかったのか、あるいは、彼はただそれを理解しなかっただけなのか、などといったことが問われるのです。 栄養消化のモデルは、体験が同化されるやり方に関するメタファーの豊かな源泉を提供してくれますが、しかし、それが唯一のものである必要はありません。実際、患者が聞くことができないということが問題である場合、乳房―口のモデルは不適当かもしれません。口唇の様式というよりは、視覚のモダリティや触感で様式を通じて体験を同化してゆくやり方(すなわち、赤ん坊が三次元空間において、対象に手をのばして捉まえる能力を上達させるやり方)は、精神病の子どもたちに対する理論と技法のいずれにおいても、実りある源泉を提供するかもしれません。たとえば、ある体験はそれが他者に位置づけられた時にのみ同化されるという事実はそれ投影の問題よりはパースペクティブの問題により関係があるかもしれません。そういった位置づけは、投影の過程よりはむしろ摂取の過程の始まりを通じて実際含んでいるかもしれません。患者が、治療者。思考の流れをたどったりが自分自身のそれを追いかけたりすることができたり、あるいはできなかったりするやり方は、のどを流れていくミルクへの反応や、動く対象の軌跡を視覚的においかけるという問題に似ているかもしれません。 しかし、私は今少し、栄養消化のメタファーを用い続けたいと思います。というのは、ここにおいてすら、パースペクティブ、近接性、つかまえやすさ、近づきやすさといった観念が重要だからです。たとえば、乳児は乳房から乳を吸い始める前に、まずそれをしっかり捉まえねばなりません。吸啜反射は、乳首によって口蓋が(触覚的に/化学的な)刺激されることによって引き出されます。Woolrhdge(1986)によれば、母親の痛さと乳児の吸乳が難しさは、できるだけ乳頭を赤ん坊の口に深く入れるだけでなく、赤ん坊の舌と顎を乳頭の下の適切な位置にもってくることでも避けられるのです。初めて子どもをもった母親たちは、実際、自分たちと初めての赤ん坊たちの間の授乳の相互のとまどいが、頼りになる助産婦に、克服されるすばらしい瞬間のことを述べています。助産婦は、ほとんど押し付けるようにして二人を一緒にくっつけ、そして赤ん坊は突然、あたかも「ああ、ここにあったのか!」と言わんばかりぬ反応し、決してもう頭をそらせません。したがって、位置や近接性、パースペクティブといった要素は突然すべての摂取的な活動のもっとも身体的なものにおいてすら、一定の役割を果たすのかもしれません。〜