うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

作業場の神さんにお薄をと、【カセクシスが妄想から現実へと移動するという安らぎがやってきます。】


 今日は、金曜日ですが、珍しくお休みを頂きました、というか(笑)シフト上、休みになっていました。
支援が難しい方々がも、時間をかけてワークスルーさせて頂く機会を頂ければ、お互いが楽になるので、うたたねの職員なら、大体の職員が支援できるようになってきました。
 時間を頂けるのは、本当に嬉しいです。きちんとした支援をさせて頂ければ、2年・3年かかる時もありますが、何とかなるものです。
きちんとした支援とは、やはり臨床心理学的なことも必須なので、うたたね職員には、今年も勉強して頂く予定です。

 きちんとした支援について、この本では、沢山の事が学習できます。今日読んだ箇所だけでもです。

『分析者への信頼は、分析者は信頼できて、概ね予測できる人だ、という経験に基づいて培われるものです。そのためにはしばしば多くの反復が、徹底的操作として必要なのです。』これは、反復と徹底操作の重要性を説いています。時間をかけてじっくりとやる価値はあります。それには、まず信頼を得る事が先ですね。


『妄想は以前のパターンで再燃することがあります。ストレスのあるときにです。それは精神病的な部分が残っている領域はなくなりはしないからで、その領域では、そうした部分は変化しないままなのです。』こちらは、良くなっても、何かの拍子にその部分が出てしまう時の、考え方を教えてくれている感じがしました。


『「Danはものごとを自動的に行った……彼の、自分の小型船を、自分の意志や身体の一部にしたからである。けど彼は、自分のそうした知識をHarveyに伝ええなかった」。』
『ある人の技法は、その人の一部になります。けどそれを他の人に伝えるのは、難しいことですが分析者はすべて、自分でものごとを見つけ、自分自身の治療方法を発展させなければなりません。』
 この二つを読んでいると、アフォーリズムやゲシュタルトを、読み直さないといけないな(笑)と思ってしまいました。
無意識レベルで、ギターのアドリブ時の手癖のように支援方法がなっていないか? 慣れだけでできていることが、本当の支援だと思っていないか?と自分の支援を振りかえらせてくれました。






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妄想領域の分析治療では、その後で、現実がさまざまな直接的方法で提示されます。妄想と同じ水準、つまり原初的で、前言語的で、前アンビバレントで、前対象関係で、身体経験的な、水準で提示されるのです。妄想の解体は、苦痛に満ちたショックとして経験されますが、それは患者の「カタストロフィ」地点の一つに達したからです。しかしカセクシスが妄想から現実へと移動するという安らぎがやってきます。妄想は、いま−ここで、の直接性を失い、そして記憶として残るか、あるいは忘れ去られてしまうこともあります。認知の様式が変化すれば、思考と行動の様式が変化します。それまで、破壊と絶望に対する終わりなき闘いに用いられてきたエネルギーは、創造的な目的に自由に用いられるようになります。自我はより調和的に機能しはじめます。そして言語的解釈が効果をもつようになり、その結果、通常の分析技法が適応となり用いることが可能になります。 妄想は以前のパターンで再燃することがあります。ストレスのあるときにです。それは精神病的な部分が残っている領域はなくなりはしないからで、その領域では、そうした部分は変化しないままなのです。違う点は、患者が、例えば、興奮状態や、不相応な感情や、あるいは不適切な行動は、妄想と関係があるにちがいない、もし通常の反省でそうしたこころの揺れが変化しないのなら、と自ら認識できるようになっている点です。そして患者がその認識を追究し理解できるようになるということです。それは彼の分析者が以前行ったことなのです。患者は、興奮やあるいは関連した記憶から抜け出せる行動、を発見できるようになりますし、自分の内部にある原初なる一を信じられるようになっています。 わたくしは他のところで、次のように言いました、これらの妄想思考は、母親と誕生前の胎児が一体である、という事実としての現実から生じているだけでなく、ポジティブな価値もある、と。わたくしには次のように思われます、基本的な一体性、つまり「原初なる一」は、事実、個人や社会の安定性の基礎、というだけではなく、家族生活や家庭、そしてあらゆる所蔵感の基礎でもある、と。すべての転移現象、象徴化、共感は、そこに根ざしています。このことが示唆するところは非常に大きく、いったんこの概念を把握すると、今まで理解されなかった多くの事柄に、光を当てることができます。


後記
 わたくしが描出したいくつかのエピソードは、長期にわたる細心の治療の後で得られたものです。分析者への信頼は、分析者は信頼できて、概ね予測できる人だ、という経験に基づいて培われるものです。そのためにはしばしば多くの反復が、徹底的操作として必要なのです。 わたくしが主に述べているのは、患者の「カタストロフィ領域」(Galatzer Levy 1948)あるいは「カタストロフィ地点」のことで、そこでは、変化が、つまり分析者からの絶え間ない圧力が一貫した効果をあげえなくなり、患者の反応を逆転させる、という変化が生じます。攻撃衝動が逃避へ、憎しみの表出が愛情の表出へ、あるいはその逆へと、変化しがちです。 そうした経験は、わたくしの考えでは、「修正感情体験」ではありません。もともとのダメージが消えることはないのです。しかし早期のダメージ経験の隣に他の経験を提供することによって、患者に、彼のより成熟した非妄想的な自己の活動を発動させるのです。 しかし、もちろん、患者は、ある状況下にいる一個人ですので、外界から一貫した圧力を受けています、そこでは、彼はそれまで認識しなかった現実に直面し、まったく同じように突然変化することもあります。このことが危険なこともあります、精神病的転移を誘発することがあるのです。分析者は、そうなったとき、それに対処する備えができないいなくてはなりません。 変数はほとんど無限にありますので、変化の可能性も無限にありますし、しかし、両方とも現実でなければなりません、空想的な事柄であってはならないのです。そして分析状況がきわめて安定していること、が必須です。というのは「不確定性原理」も関わってくるからです。変化は計測できませんし、正確に予想することもできません。というのは、変化を観察するだけで、観察者は変化そのものや、変化後の出来事を変えてしまうからです、観察者自身の無意識的な諸反応によって、です。 このことは分析者の統合性に関わってきます。変化に対する彼の責任は、良い変化であれ悪い変化であれ、それは分析者の仕事の結果ですが、素材に対する研究者としての責任です。そのことが意味しているのは、カタストロフィ領域あるいは妄想領域、の事柄を進んで知ろうとし、使用するようにしなければならない、ということです。そうでないと、彼の逆転移が、患者と関わって自身に困難さをもたらします。もうすでに十分に逆転移はあるのですから。 わたくしは最後に、Rudyard KiplingのCaptains Courageous(1908)から二つ引用したいと思います。 「Disko(Cape Cotの釣り船の船長)がタラのことを考えたとき、彼はタラとして考えた」境界精神病患者の分析治療を行っているとき。わたくしは、境界精神病のように、だけではなくて、境界精神病としても、つまりわたくし自身の精神病領域を用いて、考えなければならないのです。 「Danはものごとを自動的に行った……彼の、自分の小型船を、自分の意志や身体の一部にしたからである。けど彼は、自分のそうした知識をHarveyに伝ええなかった」。 ある人の技法は、その人の一部になります。けどそれを他の人に伝えるのは、難しいことですが分析者はすべて、自分でものごとを見つけ、自分自身の治療方法を発展させなければなりません。