うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

少し早く、正月飾りを片付けましたと、【重要なことは、もちろん患者にいつ触れ、いつ触れないか、を知ることです。】


一足早く、自宅の正月飾りを片付けました。
玄関がすっきりしました(笑)投げ入れていた花器はもう少し置いておこうと思います。

 今日は、給与計算などしていました。
気候のせいなのか?体調が優れず、後はゆっくりさせて頂きました。



 本は、事務所に行った帰りに、マックで昼食を頂きながら読みました。
簡単なところでは、この時期は、室温の調節が難しく、体温調節が難しい方も居られ、手足などの末端を時々触らせていただき、衣類や室温の調節をさせて頂くようにしていますが、利用者さんに触れずに、自分の体感だけで室温調節をしてしまう方もおられるので、その都度、注意させて頂いています。特に入浴介助の後なんかは、支援者は暑いですが、入浴後は、体が冷えやすいので、支援者は臨機応変にできる服装になるべきですね。
 下記のように、支援でも(下記の場合は治療ですが)原初的な所に固着点がある方に対しては、やはり身体接触のタイミングを計って、効果的にするべきだと記述しているように、感じました。
 体に触れられるのを嫌がる方も多いですが、入浴など、清潔を保たないといけない方も多く居られ、されて嫌な事を、自分は大まかに3段階に分けてみて、(勿論その方によって違います)されるのがめちゃくちゃ嫌・されるのが嫌・されるのがちっと嫌の範囲を見させて頂き、されるのがちょっと嫌を、粘り強く繰り返していくと、何とかその段階が少しずつ下がって行くので、(例えば、お尻や陰部をきれいに洗わせていただけない場合に)最終的には、普通にやらせて頂けるようになります。
 同じことを、少し前にアップした箇所で、リトル先生も言っている気がします。
 腫れ物に触るような支援をしていたら、お互いがしんどいままの支援にしかならないので、うたたねでは、そこはしっかりするようにしていますし、気に入った支援者だけがその方の支援をするという、施設でよくあるやりかたもうたたねではしません。

 まずは身体経験というのは、本当に分かる気がします。触る触らないは何も、身体接触だけではなく、心的にも言えることで、心が触れたら、心身ともに安心感が生まれるので、お互いにとって素晴らしいことではないでしょうか?そのやり方を、この本では、勉強できます。
『「でも手の中のマグの、愛らしい形や、温かさや、コーヒーの香りを感じたら、飲みたいことに気づいたのです」。興奮は消え去り、わたくしたちは他の話題に移りました。』は、現場での支援者の態度次第でもそのマグやコーヒーの役割ができることがあります。それができるのは、日頃からその方の様子をしっかりと見させて頂き、かつ、それなりの関係を作らないと無理ですね。
 本当に勉強になる本です。



3
分析治療では、寝椅子を用いるので、身体の動きは、ある程度限定されます。そのせいで神経症者では、言語化への傾向が増大します。しかし、境界精神病者は、いつも言語化できるわけではありませんし、しばしば身体の動きが最初に必要になります。どの患者でも寝椅子によこたわると、その時点での最も主要な不安の所在であらゆる水準への退行が自動的に生じます。境界精神病者では、多くの場合、精神病水準の不安です。その際の身体の動きは、すでに十分に成長した所在を用いての動きであるにもかかわらず、本質としては乳児の動きなのです。というのは、乳児は動きを抑制されたり、動きを無意味なものと見なされるので、彼らの動きは効果のないもの、のままになっているのです。効果的な動きが発見されると、それは話すことと結びつきます。たいていの人が当然のことと考え、事実、幼児期からなかったとはとても信じられない経験(例えば裸の赤ん坊が自由に足をバタバタするとか、泣きながら寝てしまう、など)がないこと、そして別の経験(例えばショールにきつくくるまれ、哺乳瓶を枕に立てかけたまま放っておかれるとか、あらゆる手足の動きを妨げられる、など)があることは、しかもある範囲の越えて非常に広範囲にわたることは、「原初なる一」の欠如を強めたり、あるいはそれを早期に中断させやすくします。そして分化や、経験の同化を妨げます。 そうした新しい経験を発見したり、分析治療というあらゆる状況下で古い経験の記憶を再現することは、「原初なる一」を修復します。もっとも、妄想を揺さぶると、その直後はショック状態になりますが、安心感、修復、変化は遅れてやってきます。 Hildaは、ビックリ興奮した様子で、セッションに早くやってきました。彼女は、わたくしがまだ遅いコーヒーを飲んでいるのに、寝椅子に横になりました。
 「あなたのコーヒーを少しいだけませんか?」、と彼女は尋ねました。わたくしはもう少し飲んで、それから彼女にマグを渡しました。彼女はマグをしばらく両手で抱え、それから驚いてわたくしを見つめ、急いでコーヒーを飲み、マグを返しました。「あなたは、わたしがマグをどうするつもりだ、と思ったのですか?」、と彼女は言いました。わたくしは、分からなかった、でもわたくしの顔に投げつけるかもしれない、と半分予想したと答えました。彼女は、自分の頭越しに捨てよう、と考えたと言いました、「でも手の中のマグの、愛らしい形や、温かさや、コーヒーの香りを感じたら、飲みたいことに気づいたのです」。興奮は消え去り、わたくしたちは他の話題に移りました。
 Hildaの乳幼児期は、とても外傷的だったので、生き残るために彼女は、自分の感情を、他の人からも自分自身からも隠さなければなりませんでした。彼女はまた、心地よい出来事を想像するしかありませんでした。しかしそうした出来事を実現させようとすると、いつもその後で災難がやってきました。彼女の子供時代の家庭では、大人と子供の間では、異なった基準が用いられていました。彼女は、わたくしのコーヒーを大人の世界中のものと考え、わたくしからもらえるものは、拒絶かあるいは「子供」の世界のものだろう、と考えたのです。彼女は、いつもしてきたような方法で反抗しようとしたのです。つまり頭越しにコーヒーを捨てることです。しかし彼女は、わたくしの自発的な反応が異なっていることに気づき、そのことが彼女の感情もそして行動も変化させたのです。彼女はその後で、感覚と情緒とを結びつけることができ、そしてその両者を、わたくしたち二人の動きを通じて、言葉に結びつけえたのです。そうして悪い事態は起こらなかったのです。



4
 わたくしは両手をかなり用います。身振りとしてや相手に触れようとしてです。それは妄想を分析するときです。しかし、一体どのように、いつ、そしてなぜ、わたくしが身動きしたり、患者に触れるのか、を記述するのは容易ではありません。もっとも多いのは、ただ手をどこかに置くことで、その時の状況に応じてそうします。Aliceが罠にかけられたと感じたときに、わたくしが彼女の足首に手を置いたときがそうです。あるいは患者がひどい頭痛を訴えたときに、わたくしは患者の額に手を置きます。
 わたくしはかつて尋ねられたことがあります、「いつ患者に触れるのですか?」と、そのときわたくしは言いました、「これ以上ふれないでは、いられなくなったときです」、と。その時からわたくしは、触れた方がいいのかどうか、をより正解に判断できるようになり、また、治療の場での自発性を恐れなくなりました。 分析者と患者とのいかなる身体接触も、常に性的誘惑として理解されなければならない、と信じられてきました。訓練生のとき、わたくしたちはそう教えられました。しかしそうした意味としてのみ理解できる場合は、実際の経験では、そんなにはないのです。〜
もし分析者が、患者に触れることに罪悪感を感じるなら、彼の行動は、無意識的な逆転移(わたくしはこの言葉を、別の論文で定義したとおりの厳密な意味で用いています)で行われたのかもしれませんし、ありません触れることが不適切だ、と気づくのが遅すぎたのかもしれません。もし患者が罪悪感を感じるなら、それはどこか転移に関係しているに違いありませんし、攻撃衝動か性衝動のどちらかが関係しているのかもしれません。手は、治療者の乳首、ペニスなど、ときには全身の「代役」になることができます。しかしわたくしが認識するようになったのは、妄想水準では、手はもはやわたくしのものではなくなり、患者自身の何かになり、分化の始まりになること、がしばしばあるということです。手はまた、一つの代理物です。しかも代理されている他の多くのもの、すなわち寝椅子、毛布、コーヒーと等価の代理物なのです。このような事象から、わたくしは、Mme.Sechehayeが「象徴的実現」と記載した現象や、「象徴的等価物」と呼ばれる事象、を理解しています。 重要なことは、もちろん患者にいつ触れ、いつ触れないか、を知ることです。例えばもし患者が、触れられて興奮したり、分析者の手を握ったりするようなら、患者はたいてい触れるといった積極的な反応を必要としていないのです。しかしもし患者がすでに興奮していて、他の方法では興奮が発散されないようなら、そのときは接触によって、発散されるかもしれません。ですから、もし興奮の発散が明らかなら、そのときには分析者が患者に触れる機会ではないし、触れることはかえって発散の妨害になるでしょう。むしろ接触が必要なのは、発散の後で、分析者も患者もともに生き残っていることを明らかにし、両者間の(心的)一体性を保持するためなのです。 わたくしがここで描出して、身体接触の類は、最早期の幼児期のものであることと、例えば肛門期や性器期水準に至るまでには言葉がすでに使われはじめていることに思いを致すなら、身体接触の有効範囲は限られていること、そしてなぜ精神神経症では、身体接触が不要かつ無益であるか、を理解するのは容易でしょう。 わたくしは、自分自身が経験しているあらゆる興奮、に気づいていなければなりませんし、それらの興奮が、わたくし自身の幼児体験に属するものであり、自己分析されるべき材料なのか、それとも客観的なもので、この患者の分析治療という今の状況に属するものなのか、を見極めなければなりません。分析治療というものは、しばしばエキサイティングなものです。そしてその興奮はきわめて適切なことだってあるのです。〜