うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【つまり多くの場合、早期幼児期が、生命に対する何らかの現実的な脅威、があったのです。】


 今日は日中が、賑やかだったので、2班に分かれました。
おっちゃんは外食班で、志都呂のイオンまで行きました。食後、ガーデンパークまで行きましたが、あまりにも寒かったので、トイレ休憩だけにして、戻って来て、お風呂に入ったり、ゆっくりお茶をしたりしました。


 気候のせいか? 周囲に訃報が多くて、何ともいえない気持ちになっています。


 本は、早めに出て、お得意の(笑)ファミマでコーヒーを飲みながら読みました。
この本を読んでいるお蔭でしょうか?日々本の様な状況に出くわします。今日は、自分の逆転移(投影されているのを、他の職員さんの話しかけで気が付きました)を、即座に出している自分がいました。おそらく、それは、間違いではなく、純粋におかしいと思う事は、他の人がそれを感じても、おかしいと感じているはずです(違う事もありますが、大抵はそうです)。皆さんと話し合っていると、具体的なその形が見えて来ました。結局は、珍しく(笑)親分が言うように、ある職員の不安がその方に投影されてしまったのかも知れませんね。気持ちの優しい方なので、そう思います。

 自分のこともそうですが、やはり、幼少期に下記の様な状況にあれば、そこが固着点になってしまい、自分が不安を感じると、その固着点の状態が、蠢いてしまうのでしょうね?精神分析者になるには、長い年月がかかり、精神分析関係の本を読んでいて、症例を見ていると、2年3年なんて短い方ですね......。
 それだけ早期に障がいを生じてしまうと、それを解体するには、時間がかかる様ですね。特効薬なんてありませんので、日々勉強と観察あるのみですね......。



第6章 原初なる一(原始の全面的未分化)について

1
転移の現れ方が神経症的というよりも精神病的な患者たち、の分析治療を行ってきて、わたくしは二つの特徴ある現象に気がつきましたので、そのことを検討してみたいのです。一つは、わたくしに何とか自分を受け入れさせようとする、彼ら特有の態度のことです。もう一つは、彼らにとって、身体面の出来事がきわめて重要である、ということです。そのことは、彼らの行動化に示されています。つまり、身体が記憶しているのです。 こうした患者たちは、どのような環境でも、自分たちは生き残れない、と考えている人たちです。彼らの無意識的記憶の中には、わたくしたちが、文字どおり、破滅と見なされなければならないような諸体験、が潜んでいます。つまり多くの場合、早期幼児期が、生命に対する何らかの現実的な脅威、があったのです。それは幼児自身のあるいは母親の病気とか、環境の中に敵意が存在していた、などです。
 そうした諸体験は、さまざまに記述されてきました。客観的見地から、彼らの病んでいるのは、例えば、「基底欠損」(Balint 1955)とか「心理的カタストロフィ、あるいは災害」(Bion 1958)であり、主観的には、彼ら自身によって、「わたしは根から切り離されている」、あるいは「わたしは骨折−脱臼しているんです」と表現されてきました。
 この状態を修復しようとして、彼らは絶えず、いつまでも疲れきるまで努力しますが、この努力を、何人もの分析者たちが、分析者との間に「共生的な」関係を確立しようとする試み、と記述してきました。しかしわたくしは、この言葉を用いるのは誤解へ導く、と思います。わたくしの経験では、患者たちが確立しようとしているのは、共生状態ではなく、むしろ分析者との全面的な合体や、分析者と未分化の状態なのです。