うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

YWCAさんと、ヨナワールドさんと、アトリエ・プペットさんと、【分析者の課題は、被分析者と完全に一体になり、同時に、分離していることであり、深く関心をよせることで、しかし患者に巻き込まれないことなのです。】


 今日は、早朝に車で、名古屋に向かいました。
まずはYWCAさんで、11時20分までアレクサンダー・テクニークを受け、首のこりを改善してから、11時30分に親分が待つ、ヨナワールドさんに走って(笑)向かいました。
 グーグルマップでは、10分かかると出ていましたので、走って何とか29分に着きました(笑)YWCAさんを出た時は、25分になっていました.......。


 まずは4階にある焼成室を案内して下さいました。
シッカリとした電気窯があったので、羨ましいかぎりですね!

 階段には素敵な人形がありました。

 3階は刺繍などをされていました。



 こちらの作者さんも、刺繍をされていて、絵の写真を撮らせて下さいとお願いしたら、良いとのことで写させて頂きました。
素敵な作品が沢山ありました!
 基本的に、廃材を使用しているとのことで、企業さんの頂きものだそうです。こちらも羨ましいかぎりでした。

 帰りに、美味しいケーキを頂いきました。
施設で作っているというような代物ではなく、本当に美味しかったです!



 早朝に出たのと、全速力で走ったので(笑)異常にお腹が空き(笑)近くにあった、台湾料理屋さんのランチを頂きました!
美味しかったです。
 その後、保坂さんのお店に行きました。
まだ開店はしていませんが、ギターの音がどれだけ外に響くか?など試したいみたいで、色んな曲を弾いてみましたが、大丈夫そうでした。
 月に一回栄のYWCAさんに来るので、その時に寄って、ギターを弾いて欲しいとのことでしたので、体が続く限り(笑)弾きに来ようと思っています。

音の跳ね返りがほど良く、弾いていても気持ちが良かったです。
 もう少し弾いていたかったのですが、自分の受診が夕方に入っていたので、慌てて豊橋まで戻りました........。



 アップは、昨日読んでいた箇所です。

 下記は、現場でいつも気を付けていたいことですね。 
『分析者の課題は、被分析者と完全に一体になり、同時に、分離していることであり、深く関心をよせることで、しかし患者に巻き込まれないことなのです。』

 続く下記も、心に留めておかなければなりませんね!
『それにまた、わたくしは思うのですが、原初の状態を表すものとして、共生という考えが好まれることになるのです。というのは、共生は、二つの身体の存在を、つまりある程度の分離を、含意するからです。』

 バタバタした一日でしたが、本は何とか読みました。ギターは、プペットさんで気持ちよく弾けましたし、後は寝るまでに体をほぐして終わりですね(笑)
忙中閑ありですね!



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  最後にわたくしは、原初なる一というこの考え、の意味と応用について述べたいと思います。分析状況における場合と日常生活の中に見いだす場合、また正常なものと病的なものについてです。 もちろん、明らかなのは、病的なものとしての原初なる一です。分析治療に関しては、別に臨床素材があります。その素材が幾とおりにも理解できることは分かっていますが、わたくしがみなさんにお願いしたいのは、わたくしと一緒に、一側面についてだけ考えてほしいということです。すなわち、発達の最早期の水準に関係していて、その水準は、前言語的な、対象関係が発達する以前の水準で、そこでは身体経験がなによりも重要である、という側面のことです。そこでは、どのような種類の分化も、まだ始まったばかりで、それゆえ、アンビバレンスもなく、葛藤もないのです。〜

〜患者と分析者との完全な同一性、というこの考えに基づいて、わたくしは、投影、取り入れ、圧縮、置き換え、といった心的機制の概念や、Freudがいわゆる夢の作業という用語に含めたすべての概念、を再検討すべきだと思います。 わたくしは先に、分析者について述べ、彼は、患者を自分の仕事として、そして自分の仕事を、自分自身として体験する、と言いました。そのことは「わたしの愛」について述べる詩人に似ています。「わたしの愛」には、愛する対象と、自分自身の感情、つまり詩人自身とが意味されているのです。わたくしたちはここに、わたくしたちが圧縮と考えてきたものを、原初的な、未分化状態の退行と考えうることが見えてきます。同様に、わたくしが引用した最初の臨床例で、投影同一視と思われたものは、わたくしとの完全な同一性を求める要求、だったことが明らかになりました。 これと同じ理由で、患者にとっては、すべてが一つ、なので、転移精神病状態にある患者の夢は、潜在内容も顕在内容も同じなのです。
 わたくしは、原初なる一に到達する必要性、についてあれこれ述べてきて、原初なる一への恐怖については、触れている程度で、きちんと述べてはきませんでした。原初なる一への恐怖は、まさにそして本質から生じるのです。というのは、単一体になる地点は、破滅になる地点でもあるからです。その地点は、パラドックスの、カオスの、完全なアンビバレンスの地点で、そこでは正反対のものが、同じでありながら、と同時に、まったく異なったものでもあるのです。この不安を体験するのは、被分析者だけではありません。その困難を、分析者も共有します。分析者の課題は、被分析者と完全に一体になり、同時に、分離していることであり、深く関心をよせること――つまり没入すること(Michael Fordhamの表現[1960]を借りれば)――で、しかし患者に巻き込まれないことなのです。これだけでもとても困難な課題です。この恐怖のために、妄想という言葉が非常に嫌われ、言語的な技法にだけ固執することになってしまうのです。それにまた、わたくしは思うのですが、原初の状態を表すものとして、共生という考えが好まれることになるのです。というのは、共生は、二つの身体の存在を、つまりある程度の分離を、含意するからです。 わたくしが主張しているのは、普遍的な一つの概念の存在です。それは正常な、本質的な概念、エディプスコンプレックスのような概念なのです(しかもエディプスコンプレックスは、わたくしの主張するこの概念なしでは、発達できません)。それは、生存を左右する、母親との完全な同一性、という概念です。この概念は、精神的健康、まとまりのある人間としての発達、全体的、分析的思考能力、の基礎に存在しています。それは、精神病者の妄想の中に、転移精神病という形でみられるだけではなく、正気の、健康な人にも見られます。 そのもっとも明白な直接的な例は、いま、ここに、あるのです。つまり、皆さんとわたくしが、理解できるのは、わたくしたちが、精神的現実である単一体、一時的にわたくしたちが、そこに無意識的に退行する単一体、のある領域を共有するからに他なりません。このことが、共感すること、なのです。一致点を見いだすこと、つまり、個々の人たちの間や、あらゆる集団の中で、意見の合意が可能なのは、これゆえなのです。そしてこんどは合意が、生への無意識的な信頼、を強めますし、他の点での相違や不一致に耐えるのに必要な、安定を、もたらすのです。〜