うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさんにアイスクリームと、【わたくしたちが一体であるという妄想、を最終的に解体するのは、その気づきなのです。】




 用事が一段落して、ひーひー王子の散歩も済んで、ほっとしたら。、アイスクリームが冷蔵庫にあるのを思い出したので(笑)食べていたら、ねこさんが寄って来ました(笑)。
 食べてから、差し出したら最初は恐る恐る舐めていましたが、途中から顔色が変わり(笑)、最終的には、顔を突っ込んでいました。(笑)


 今日は、早番と運営会議がありそれに参加させていただきました。運営会議に来ていただいている職員さんたちは、うたたねを真剣に支えてくださっている面々です。貴重な意見や、会計のほうからもきちんとした数字が挙がっていて、改善しないといけない部分がはっきりと分かりました。
 新年度からの新しい体制も、ほぼ決まりました。お金を稼ぐのが下手な人間ばかりですが(笑)、現在の職員さんは自慢できる方ばかりなので、是非とも長続きして欲しいなと思っています。
 おっちゃんは、より現場に入ることができるようになりそうなので、うれしいです!



 本は、早番を早めに出て(笑)、読みました。
アップしようか悩んだ個所ですが、個人的に重要なところがあったのでアップさせていただきました。





〜驚くべきことは、患者は細かいことをほとんど知りたがらない、ということです。わたくしは、「病気になることについて、どんなことを知っているのですか?」、と尋ねられたことがあり、わたくしの答えは、「わたくし自身が病気になったことがあり、そして良くなったのです」で、それで十分だったのです。ただ「今のわたしのような病気だったのですか?」だけを知りたいのであり、その答えとして「はい」か「いいえ」だけが必要なのです。 患者の病気、その程度、予後、「ブレイクダウン」の意味や、おそらくことに自殺の問題、について患者と話すときには、同じ率直さが要求されます。患者は、分析者が知っているかぎりの真実、を知る必要があります。たとえ、すでに患者自身が知っていたとしてもです。 もし患者が自殺しようとしているのなら、分析者は何を感じるでしょうか? 患者が自殺する権利、は認められなければなりません。しかし次のことを明瞭に伝えるだけで、つまり分析者は心配するだろうし、悲しみと喪失を感じるだろう、罪悪感は感じないが(もっとも患者が本当に自殺を望んでいるときには、罪悪感があるにちがいないのです。というのは患者が分析者の中に引き起こした憎しみ、しばしば客観的な憎しみですが、のためです)、分析者はその問題を真剣に受け取っていて、責任を感じている、しかし患者が自殺するとしても、分析者は死なないし自殺しないだろう、という事実を伝えられるのです。そして最終的な責任は、患者自身にあることを示さなければなりません。もし患者が本当に自殺したいのなら、分析者は止めることはできないし、それで終わりです(小さな子供にとっては、死ぬことは、たんに行ってしまうことで、望めば戻ってくることなので、死の結末について話してあげなければなりませんが)。以上の対応はすべて本物でかつ適切なのです。そしてこのやり方は、二人の間の一体も分離もともに許容範囲しているのです。 同時にこの対応はまた、現実に人間としての分析者の自己表明でもありますし、患者にも彼の現実を返すことなのです。この種の自己表明によって失われるものは何もありません。たとえ患者が、何度となくさまざまに治療者をその自己表明に利用するとしてもです。わたくしの経験では、この対応はきわめて明らかな利益をもたらします。そこにある真実を認識する点でです。 結局は、もちろん、患者は、わたくしのものである感情、言葉、あるいは動きは、彼のものの代理物としては役立たないこと、に気づかなければなりません。わたくしたちが一体であるという妄想、を最終的に解体するのは、その気づきなのです。患者は、自分とわたくしとが、ある事柄については同じ様に感じるけれども、他の事柄については、まったく違うように感じること、そして、わたくしたちは多くの出来事を共有するけれど、それらの体験の仕方は同じではないこと、を発見するのです。つまり、わたくしと一体であるという患者の妄想は、患者にとっては真実であるということを、わたくしがまず十分に受け入れること、そしてその後で、それが客観的には真実ではない、しかし同時に、わたくしたち二人にとっての内的心的現実としては真実であること、を伝えることです。