うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

本が来たと、うたたね茶会と、【しかし、反応や行動が予測不可能な患者たちとの分析治療では話は別です。分析者に突然生じる感情の量は、ときに非常に巨大なものになることがあります。】


 先程、本が来ました!
 精神科医の神田橋先生と、整体師の白柳先生の対談形式の本ですが、少し読ませていただいただけでも、勉強になっています。
まずは、リトル先生の本を読み終わってからですね(笑)繰り返し読んでいるので、時間がかかっていますし、時間をかける価値の本だと思っています。
焦らずに、少しでも理解ができたらと思いながら読ませて頂いています。
 本屋さんでは、この本の近くに、タッピングの本もあり、少し覗かせていただきました。興味深い箇所もあったので、時間を見つけて、そちらのほうにも入っていけたらと思います。心的外傷の方々に効果があるようでした。


 夕食後、珍しくうたたね茶会をやりました。
差し入れが沢山あって(笑)、この時期に野菜も沢山いただき、感謝していますが、甘いものも沢山あり......。
 まあ、少しずつ消費していきます。(笑)
お抹茶は風邪にもいいので、濃いめに点てました!
食後なので、胃には負担が少ないと思われます。
 今日は、夜勤なので眠気覚ましには最適ですね(笑)

 看護師さんが、利用者さんを見に来てくれた隙に(笑)アップします!



 自分たちが、支援させていただいている方々は、下記の『行動や反応が予測不可能な患者たち』に近い方が多いので、本当に参考になります。
『しかし、反応や行動が予測不可能な患者たちとの分析治療では話は別です。分析者に突然生じる感情の量は、ときに非常に巨大なものになることがあります。』確かに現場で真剣に向かい合っていると、こんな状態になってしまうこともありますね.....。周囲の職員が素早く介入しないとその方は潰れてしまいます。でも、その分、やりがいもある仕事だと思っています。
 相模原の痛ましい惨事も、自分の心の中に、きちんと解決できていないことがあったので、利用者さんたちに、度が過ぎた同一化してしまったのでしょうか? 利用者さんたちの投影を利用者さんたちに、分かりやすくかえせなかったのでしょうか? この章の最後に出てきますが、『〜逆転移は、分析治療における一つの事実ですし、そうしたものとして、本質的に中立であり、あるいはむしろ、おそらくアンビバレントなものなのです。つまり、潜在的に、善でもあり悪でもあり、価値あるものでもあり、有害なものでもあるのです。いや、逆転移はそれ以上のものなのです。〜』そのアンビバレントの片方にだけ、神経が(精神が)行ってしまった結果なのでしょうか? そう思うと、逆転移を本当に理解して現場に入っていないと、それに近いことが起きても、なんら不思議ではない気もします.....。


 上手く支援ができないときに、現場の支援者が、利用者さんのせいにすることがよくありますが、自分はまず、自分の不甲斐なさを感じてしまいます。自己否定から入らないと、福祉の現場も、アートも、音楽も成長は望めませんね.....。利用者さんのせいにする方は全然進歩がなく、同じ過ちばかり続けています.......。それが逆転移ということに気が付かなければ、リトル先生のいうように、両者とも成長ができないのでしょうか?




第7章 逆転移のポジティブな貢献
わたくしの考えは、Dr.Winnicott(1960)の考えに、非常に近いものになります。実際、わたくしは、彼が述べたことのすべて、に同意したいと思います。わたくしもを逆転移という用語、は患者の諸要求に対する分析者の総反応の中の特殊な部分、に限定することが非常に重要だと思います。わたくしは、次の二つに明確な区別をつけたいのです。つまり、神経症患者の治療で分析者が行うこととして神経症以外の患者の治療で分析者が行うこと、の二つです。後者の患者たちは、分析者の職業的な態度を、神経症患者がするようには利用できないのです。他の言葉でいうと、行動や反応が予測不可能な患者たち、についてこれから話すつもりなのです。わたくしが、今からお話しようとしていることは、おそらくかなり知られていることですか、しかしで他の演者の方たちが、すでにきちんと明確に述べておられる、とも思えません。二つのタイプの患者たちが分析者に引き起こす感情や不安は、異なっています。量的にも質的にもです。 わたくしは、わたくしたち全員がおそらく同意する、と思うのですが、無意識的な逆転移は、神経症患者の治療の場合、それほど大きな困難をもたらさないのです。ただ、経験の乏しく分析者(学生、または非常に長い間、資格が与えられていなかった人たち)は別ですが。どの辺り関わり、生じていないか早く予測できますし、それがどのようなものであれ、非常に決定的な影響を与えずに、分析できます。 しかし、反応や行動が予測不可能な患者たちとの分析治療では話は別です。分析者に突然生じる感情の量は、ときに非常に巨大なものになることがあります。治療の成果が、非常に長い間、疑わしいままになることもあります。そして、分析者に生じる不安の質は、対象化可能な不安とは異なり、しばしば主に精神病水準の不安、つまり抑うつ的で妄想的な、特に生存をめぐる不安なのです。 分析者は、神経症患者に対しては、分析作業を上手に遂行できるかもしれません。Dr.Winnicott(1960)が述べているようにです。「意識的で精神的な努力をするだけであれ容易である。アイデアや感情が湧いてくるが、それらはよく吟味され、ふるいにかけられてから、解釈として与えられる」。Dr.Winnicottがここで述べているのは、彼の意識的自我の活動であり、確かにわたくしたちは、少なくともたいていの場合は、そのように作業したいと強く願っています。 予測不可能なタイプの患者たちは、いつもそのようにさせてくれる訳ではありません。上記の望ましい分析作業のあり方が挫折するのは、二つの形です。一つは分析者は「解釈」と思っているのに、患者にとっては、たんに無意味な発言に過ぎない、ということがしばしばあるのです。患者は、ときには解釈を受け入れるかもしれませんが、それは「そうですよね、先生がそういうのなら、信じなければなりませんね」という気持ちからなのです。しかし、これはもちろん、信念とはなりません。次の時には、患者は、まるで解釈を聞いたことがないかのように、振る舞うのです。二つ目ほに患者が、しばしば分析者に、ある状況をもたらすことです。その状況とは、分析者が、その状況を吟味したり、ふるいにかけたりする十分な時間を与えないのです。分析者は、何とかして機先を征して、患者に何かを伝えたり、行動して、患者の危険な行動化が生じないようにするのに十分な検討の時間が必要なのに。 こうした状況では、分析者がいうことや行うことはする患者に関する限り、いくらかでも解釈的な効果をもたなければなりません。つまり、患者が自分では認知できなかった現実を、いくらかでも患者に伝えなければなりません。幸いなことによってこれは患者たちに対しては、わたくしたちが通常きづかずにしていることの多くが、そうした効果をもっています。そしてわたくしたちが、意図してそうしようとするなら、その効果というものなのでしばしば、患者たちのみならず、わたくしたちにも非常に啓発的なのです。〜