歌舞伎町でブルースを!!!と、【妄想が最終的に解体するのは、そして彼が回復するのは、【この身体の動きと接触の結果によるのです。】
恐いお兄さんたちが居なさそうな場所で(元日なので、お店もあまり開いてなかったのでw)、少しだけブルースを弾き、親分に写してもらいました。
近い将来、東京でライブと、アートの展示が出来たらなぁ、ではなく、やると心に誓いました。(  ̄ー ̄)ノ
ふと、高校生の時に、学校近くの科学館?見たいな建物があり、夏休み明けに、小学生が、夏休みに自由研究で作った、ものの発表会があり、会場の監視のバイトに選ばれて、バイト代5000円で、一緒にバイトした同級生と京都の大原まで行き、大原三千院にあった、ノートに大原の感想を書いて、皆さん住所、氏名を書いていたので、同じように書いたら、東京の女子中学生の女の子が、文章を見て下さり、文章が素敵だったので(当時、曲を作るのに、印象派詩人の ヴェルレーヌや、ボードレールや、ランボー、日本のダダイズムの高橋新吉、中原中也、萩原朔太郎等を読み漁ってました)文通をしましょうと、手紙が送られて来て(新宿榎町の方でした)、約3年位(自分が結婚するまで、続きました。)続きましたが、送られて来た写真は、モデルさんのようなスタイルで、しかも美しい(東京の中学生は素敵だなとびっくりしました)方でした。
アートの肥やしにと、四時間以上歩き回り(笑)沢山写真を写しました。
本は、くたくたになりましたが(笑)何とか時間を見つけて、読みました。
写真を撮って、安宿に戻る途中に、紀伊国屋書店があったので、入り、精神分析関係の本を探したら、欲しい本が沢山あり、購入を求めましたが、無視されました……。田原に戻り、へそくりを貯めて( *´艸)買います(  ̄ー ̄)ノウィニコットの本は、彼の理論が、図やチャートにしてあり、本当に分かりやすく書いていました。
後記
パリ会議(国際精神分析学会、第20外的大会は1957年、7月〜8月)で、何人かの演者(特に、神経症における自我歪曲、の討議に参加者した人たち)は、分析治療を意味あるものにできない患者たち、について報告しています。分析治療を利用する能力が、ある点でなく妨げられているような患者たちのことで、彼らに対するけど何か新しい接近方法が、必要とされているようでした。
わたくしは、新しい接近法を提唱しようとしてきましたが、それとともに、わたくしの方法と、他の分析者の方法とを、結びつけたいのです。もちろん、多くの人が、直接的にであれ間接的にであれ、こうした問題に触れてきています。わたくしは、二人の人についてだけ。言及したいと思います。Ernest JonesとFreudです。
国際精神分析学雑誌の、「痛み」と題された短報の中で、Ernest Jones(1957)が記載しているのは、いかに「強い痛みが最高潮に達すると、局在性は失われ、全自己が、痛みだけで占められる」か、です、そして、彼は、さらに、そのことに対する、自我の反応について述べています。それは、痛みのとりことなっている人、という状態なのですが、この点においては、わたくしが前述した状態、と非常に近いものです。その状態では、自我発達の非常に早期の段階で、耐えられないほどの刺激が、刺激防壁(Reizschutz)を打ち砕き、そして、人として存在するという感覚、が失われるのです。彼は、他のところで、性快感消失不安(aphanisis)について、述べていますが、その用語は、自我発達の異なった段階にいる人によって、意味が異なる、としています。
しかし、わたくしが前述した状態は、そこでは、人として存在するというあらゆる感覚がなくなっているのですが、自我の防衛機能が、一時的に、故意に停止されているのです。分析治療過程によってそうなり、イドが、開放されているのです。
「続精神分析入門」の中で、Freudは、イドを次のように記載しています。「自我ではないすべて……混沌、興奮に沸き立つ釜」、「放出を求めている本能備給」、彼は述べています、「それがイドにおけるすべて」だと。
しかし、Freudは、ある妄想の解体についても記述していて、わたくしが述べた方法と、ほぼ同一の方法を行っています。とはいえわたくしは、意識的に彼を追試してきたのではありません。わたくしが、彼の「イェンゼンの『グラディーヴァ』における妄想と夢」という論文を読んだのは、分析者としての訓練中でした。再読したのは、つい二、三週間前のことで、読んだことを自分がまったく忘れていたことに気づきました。Wilhem Jensenの小説、『グラディーヴァ』は、若い男性の、一時的な妄想と、その治療の物語です。妄想が崩壊したときの彼の苦しみは、妄想的転移が解体しはじめる患者の苦しみとは、程度がもっと弱い点が異なっているだけです。明らかなのは、そのとき、彼は危機なのです。つまり、彼は、求め同時に避けているある若い女性に、脅威(現実の、あるいは想像の)を感じ、危機を避けようとして、彼女を刺すかもしれない虫を、衝動的に「ピシャと打つ」のです。そこで、彼の手は彼女の腕に触れ、そうすることで、彼女の現実を発見するのです。妄想が最終的に解体するのは、そして彼が回復するのは、この身体の動きと接触の結果によるのです。〜