うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

富士山がきれいでした!と、名古屋・栄で、浅草キッドと、【この目的のために、分析者はまず原初なる一を十分に受け入れなければなりません。精神上は、患者と区別がつかないまでに。しかもそれと同時に、自分のアイデンティティを保つのです。】


本当は、もう少し、東京にいる予定でしたが、親分の発案で、テディーベア作家のHさんが、名古屋の栄で、スナックを借りたとの事なので、まだ開店はしていませんが、覗きに行くことになり、予定を早めて、名古屋に向かいました。
途中、新幹線から、きれいに富士山が見えました。

 携帯からのアップは、変に凝ってしまうと(笑)余計に読みづらいですね.......。おまけに押し間違えて、今日アップしようとしていた物を昨日アップしてしまい、題名をつけなかったので、修正も出来ず.......。
 消すにも消せず....。



 最上階には、何と!能楽堂があり、ハイソな方々の出入りがあったり、有名なゲイの方がされているゲイバーがあったりのビルでした。
開店時に、親分がおっちゃんにギターを弾かせると約束を、勝手にしたようなので(笑)練習しなければいけませんね(笑)
 新宿の中心部は、路上ライブ禁止と張り紙などがあり、ちょっとすっきり弾けなかったので(笑)能楽ビルで、浅草キッドを弾いてみたら、コンクリートが良かったのか(笑)安いギターでも、良い音に聴こえました。


 地下鉄に乗っていると、大阪の継母から電話があり、音楽やアートは、年なんか関係ないから、あんたは、またやるべきだと、背中を押してくれたので、改めて、本当にやろうと思いました。



 本は、新幹線の中で読んでいたら、あっという間に名古屋でした.......。
『痛みの発見は、自己と非−自己との分化を助けます。』は、抑うつポジションに近い物でしょうか?

『痛みの発見は、自己と非−自己との分化を助けます。』こちらを読むと、そんな感じがしてきました。

  『快感の発見は、ともかくも痛みが発見に耐えられるようにする、という、二次的な助けにしかならないようです。つまり、おもに、未分化な微粒子の結合を増やして、安定させる傾向がある、ということなのです。』こちらも、そんなかんじですね。
『この目的のために、分析者はまず原初なる一を十分に受け入れなければなりません。精神上は、患者と区別がつかないまでに。しかもそれと同時に、自分のアイデンティティを保つのです。』こちらは、福祉の現場でも言えることではないでしょうか?

『この目的のために、分析者はまず原初なる一を十分に受け入れなければなりません。精神上は、患者と区別がつかないまでに。しかもそれと同時に、自分のアイデンティティを保つのです。分析者は、自分にとって正しいと感じること(なにをしたいのかと言いたいのか)、を認知しなければなりませんし、それらが、患者にとっても、同様に正しいと思いこまなければなりません。この点こそが、分析者が果たさなければならない点なのです、たとえ、ときとして過ちを冒す危険があってもです。』こちらは、彼女が一番言いたかったことように(現時点では)思いました。

 改めて、現場に使える本だと感じました!



この原初なる一から、身体活動(動きや、唾液など)が、結晶化されます。そして、情緒がそれに続きますが、それは、環境からの反応に応じてです。こうした活動は、非常に痛いものです。痛みの発見は、自己と非−自己との分化を助けます。快感の発見は、ともかくも痛みが発見に耐えられるようにする、という、二次的な助けにしかならないようです。つまり、おもに、未分化な微粒子の結合を増やして、安定させる傾向がある、ということなのです。しかし、痛みの発見は、すでに、それ自体で、分化なのです。そして、その過程は、いったん始まると、斬新的に、累積的に、持続する傾向があり、分析者/患者、という単位の内外に、十分な安定があるかぎり、持続できるのです。 そこで分析者は、患者が、自分自身の自我の防衛機能を停止して、患者のために機能することを分析者にまかせて、事態が生じるにまかせることができるようにするのです。そのうえで分析者は責任を負って、事態の処理をするのです、さもないと、混沌が生じます。この過程は、この同じ原初なる一から生じるのです。患者は感じるからです「あなたの欲しいものは、わたしの欲しいもの、だって、あなたはわたしで、わたしは、あなただから」と。このことが、また、わたくしは思うのですが、わたくしたちが、この種の患者に非常にしばしば見いだす、彼らの従順さの、そしてその陰画である、無視、の説明なのです。
 その次の作業は、妄想的転移が解消し始めた後です。防衛を停止させていた患者自身の自我機能、を取り戻すようにさせ、自分が妄想的だということに自分で気づかせ、妄想の背後にあるものを、患者個人の観点から扱うようにさせることです。それは分析者が、彼のために、そうしてきたことなのです、これまでは。 このことができるために必要なことは、分析者を認知し、分析者の事態の処理法を知り、原初的に摂食(これは体での体験であり、魔術的な取り入れではありません)、消化、吸収のパターンで内在化し、自己にまとめあげることです。その結果、分析者は、もはや、彼本来の、変化しない姿としてさせる認識されえないことになります。この過程が、分析者からの分離にかかっています。つまり、原初なる一からの分化にですけど。
 この目的のために、分析者はまず原初なる一を十分に受け入れなければなりません。精神上は、患者と区別がつかないまでに。しかもそれと同時に、自分のアイデンティティを保つのです分析者は、自分にとって正しいと感じること(なにをしたいのかと言いたいのか)、を認知しなければなりませんし、それらが、患者にとっても、同様に正しいと思いこまなければなりません。この点こそが、分析者が果たさなければならない点なのです、たとえ、ときとして過ちを冒す危険があってもです。ここで、次のことを思い出してください、つまり、この点における最大の過ちは、まさにそのようなことを、しないことかもしれない、ということを。分析者はわたし非常に率直に、明確に、物が言わなければなりません。しかし、受け取るか、そのままにするか、は患者の自由にさせなければなりません。患者側の拒否は、しばしば、延期の意味にすぎないことがあります、もう一度、原初なる一に到達できては患者自身「あなたがそう思うのなら、わたしもそう思います」、と感じるときまでのです。 ときとして困難なのは、患者の服従や依存に「つけこむ」ようなことを避けることです、むしろ、待っていれば、たいていはでき、受け入れられます(この受け入れは、もちろん、それ自体では、分析者の正しさを保証するものではありません)。 原初なる一というこの状態は、すべての転移現象の、無意識的な基礎です。それはまた、催眠術下の被暗示性や、わたくしたちが、しばしば耳にする、不思議な「告白」、という現象の説明にもなるのです。快が愛を促進し、その強さを十分に高めてきた場合、そこに原初なる一があるのは自明ですし、それは当然のことときとして考えられるのです。原初なる一は、結婚すること、母となることの基礎となり、また幼児の世話といった昇華、そして精神分析治療そのもの、の基礎になるのです。
 原初なる一が、あまりに早く、あるいは、あまりに広く、苦痛によって崩壊され、それが、身体的にであれ精神的にであれ、幼児に生じていたアンビバレンスの平衡が憎しみの方向に傾けられて混沌が生じた場合、それは、例えば、素敵とはいえないイデオロギーや、階級闘争や人種間の闘争、の基礎になることもあります。(原初なる一がなかったり、不十分唾液いうことを否認する必要上)、原初なる一が強調されなければならないときに、温容や友愛の見かけをとります。 本論文で、わたくしは、どんな具合に、についてよりも、何を、なぜか、についてのべました。どんな具合に、について。意味が伝わるように記述するのは、簡単ではありません。いったん、聞き手に馴染みのない方法で記述しはじめると、不安が生じるのは避けられないし、その結果できる誤解や歪曲が生じます。わたくしたちは、共感に多くを頼らなければなりませんが、それは、この原初なる一に頼っていることなのです。経験によって拡大されはしますが、わたくしたちは、各自、わたくしたち固有の、どんな具合に、を見つけなければなりません、試行錯誤によって、わたくしたちに生じることを生じるままにして、その上で分析治療の現実を、わたくしたち自身で発見しなければならないのです。