うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の朝食と、初詣と、【すなわちで記憶とはまずは身体記憶であること、そして動きが、現実の識別や、自己と環境について現実の発見、をもたらす上で大きな役割を果たす、という事実です。】

 
 昨日、アップしたと思っていたら、していませんでした(笑)
後は、公開のボタンを押すだけにしていましたが(笑)夜勤明けで、事務仕事やギターを弾いていたら
19時に眠くなって寝てしまっていました(笑)
 なので(笑)ちょい足ししてのあっぷです。
昨日の夜勤明けは、玉子サンドを作るのに5時からレンジに向かって作ってみました。
 小皿は、遅番や日勤の職員さんが作っているので、本当に助かります。



 今日の日中は、外食をして、山田にある泉福寺さんの境内の白山神社に、初詣に行って来ました!
はるくんは、歩くのが嫌だと(笑)途中下車してうたたねへ(笑)
 利恵さんが一番の健脚でした!
10円で(笑)お願い事を山ほどしてきました!

 夜勤明け、帰宅する前に、ファミマで本を読んでから、帰りました。←こちらは、昨日の分です(笑)
今日も早めに出て(シフトでは事務でしたがw)ファミマで本を読みました。
 本も、体も、ギターも毎日、少しずつでもやらないと、直ぐに頭も、体も、指も動かなくなってしまいます。
自分はよっぽど、頭が悪く、不器用なんですね.....。


『ときには、ある一つの身体経験の発見がないせいで、分析治療が完全に行き詰まり、それ以上進めないことがあります。』こちらを読んでいると、行動療法で言う、オペラント化とよく似ていますね。利用者さんによって、精神分析的な方法が合う方や、行動療法的なやり方が合う方がいると、自分の中では、無意識的にも分けてしまっていますが、そもそも、そういったカテゴリー分け自体が間違っているのかも知れませんね.....。
『彼は、決して、自分自身の身体のアイデンティティを確立できなかったのです、そして多くの身体記憶は、決して吸収同化され得なかったのです。』
家庭だけでなく、学校や施設などでの体験も、精神的に異常をきたすことがあります。それを根性論や学校、施設等の都合だけでやりきってしまってもよいのでしょうか?と思ってしまうような現場をいくつか見たことがあります。それは本当に考えて行かないといけない事ですね。腫れ物に触るようなこともいけないし、強引にしてしまうのも、勿論いけないし、ウィニコットの言う、『ほど良い』という表現が出来るようにして行かないといけませんね。


 『必要なことは、彼にとってはそれらの妄想思考が真実だ、ということを受け入れ、その妄想の中に入り込み、その後、現実的なものを直接提示して、内側から妄想を解体させることなのです。』こちらも、周囲を見渡してもあまりできていませんね.......。サリヴァンが言う、その方に障がいがなければ、その人格はどういうものだったのだろうか?とか、クライン派でよく出て来る、非-精神病状態はどういうところか?から考えて行かないと、その方に合った支援はできません。

『このように分析者が妄想の中に入り込む(もちろん、分析者自身までが妄想的になったり、妄想の真実性を現実には受け入れたりはしないで、ですが)ことが、今の時点で、この患者にもっとも適切な提示方法、を見つけるのに重要な要素なのです。』佐々木正美先生が言われるように、相手がこちらに合せるのが難しいのなら、自分が相手に合せればよいし、その方が簡単だ!と話されていたのを思い出しました。文字通りですね。

『彼女が、安全に動けるということを、身体感覚の水準で伝えてはじめて、彼女は妄想を解体できて、精神と身体の、そして精神病的な部分と非精神病的な部分の、必要な融合ができたのです。』物を考えるには、沢山の言葉が必要です。この本にも書かれていますが、精神に障がいをお持ちの方々は、演繹的な思考が難しいのなら、まずは、原初的な方法で行う事、すなわち、身体的な体験から初めて(ヘレンケラーが正しくその例でしょうか?)いけと言われている気がしました。

『すなわち、記憶とはまずは身体記憶であること、そして動きが、現実の識別や、自己と環境について現実の発見、をもたらす上で大きな役割を果たす、という事実です。正しい方向に向かった動きは、心的に練り上げることができます。つまりそうした動きはの他の諸経験と同化、結合されて、繰り返されるもの、創造的なものになり、そして新しい動きな新しい経験の出発点になるのです。とりわけ重要なのは、おそらく、それらが自己の主張になり、諸関係を発展させる出発点になることです。』結局、まずは原初的な身体記憶を促すように、繰り返し繰り返し同じことを行っていかないといけないのですね、(ワークスルー)

『必要なことは、彼にとってはそれらの妄想思考が真実だ、ということを受け入れ、その妄想の中に入り込み、その後、現実的なものを直接提示して、内側から妄想を解体させることなのです。』これがある面、答えなのかも知れませんね。




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  ときには、ある一つの身体経験の発見がないせいで、分析治療が完全に行き詰まり、それ以上進めないことがあります。

 〜それから彼は、母親はそのようにしていた、のを思い出しました。彼は、母親が引っ張るのを感じたのです。今、彼は、そのことを幻覚として感じたのです。このことと結びついているのは、口の中にものを入れるのを止めさせられる体験、何かを押し込んだり、取り出したりできないように、口をしっかり閉じているという体験であり、そこからさらに、母乳養育の中断と薬を飲まされた記憶、へと結びついていました。 彼の母親が、混乱を作り上げたように思えます、人工的な、外部から葛藤を持ち込んで。つまり、二種類の言葉が壁に張られていたのです。そこに書いてあったのは、一つは「気にしなくていいのよ、絶対にそうなりっこないから」、であり、もう一つは「元気をだしなさい、もうすぐ最高になるから」でした。 彼女は、彼のアイデンティティを混乱させました、「わたしの可愛い坊やだったら、そんなことしないわ。これは、Charlesのはずがないわ」、と。彼は、決して、自分自身の身体のアイデンティティを確立できなかったのです、そして多くの身体記憶は、決して吸収同化され得なかったのです。 わたくしは、彼が引っ張られたと感じた部位に、手で触れました。すると、彼は、実際の接触と幻覚とを、わたくしと母親とを、区別できることです気づきました。母親は、頻繁に彼に触れ、そして、そのことを否認したのかもしれません。あるいは、急に彼の注意をそらせて、何があったのかです分からなくさせたのかもしれません。彼は、母親が、今もこのようなことを、孫たちとの間で行っているのを目にしていました。事実、彼はかなり長い間、彼らのそうした様子を見てきていたのです。しかしはじめて、母親が自分にも同じことをしたに違いない、と推論できるようになったのです。
 〜ここでわたくしが伝えたいのは、現実のひとかけらを提示する方法です。それは避けることも誤解することも不可能なものでなければなりません。妄想を解体するだけではなく、今まで妨げられていた分別を促すためのものです。体験を領域できるようになるにつれて、誤解や誤った推論などは、言葉を用いて選別できるようになります。 Jensenの『グラディーヴァ』(「妄想と夢」)についての論述の中で、Freudが指摘しているのは、妄想思考をもっている人に、その誤りを確信させようとしても、役に立たないということです。してみても、敵意をかきたてるだけなのです。必要なことは、彼にとってはそれらの妄想思考が真実だ、ということを受け入れ、その妄想の中に入り込み、その後、現実的なものを直接提示して、内側から妄想を解体させることなのです。 このように分析者が妄想の中に入り込む(もちろん、分析者自身までが妄想的になったり、妄想の真実性を現実には受け入れたりはしないで、ですが)ことが、今の時点で、この患者にもっとも適切な提示方法、を見つけるのに重要な要素なのです。

 彼女が、安全に動けるということを、身体感覚の水準で伝えてはじめて、彼女は妄想を解体できて、精神と身体の、そして精神病的な部分と非精神病的な部分の、必要な融合ができたのです。 交替するリズムがこのように展開していきます、患者と心的に融合し、想像上で患者と一つになることと、その後、再び患者から分離することです。このリズムによって、患者は、つぎには自分でわたくしとの一体性を見いだせるし、そこから再び自力で分離することもできるのです。 こうしたことは、投影性の、そして取り入れによる同一化、のように聞こえることは分かっていますが、同一化という用語は、あらかじめの主体と対象との分離を含意しています。ところがわたくしが、ここで明確にしようとしているのは、一つのリズミックな過程、均質の塊から分化し、その後、再びその塊に付着し同化する過程ですし、何回も繰り返され、後になって変化することのできる、一つの過程です。この過程は、投影や取り入れによる同一化、の前駆物なのです。わたくしが描出してきたそうした動きの重要性は、つぎの事実の中に含まれています、すなわち、記憶とはまずは身体記憶であること、そして動きが、現実の識別や、自己と環境について現実の発見、をもたらす上で大きな役割を果たす、という事実です。正しい方向に向かった動きは、心的に練り上げることができます。つまりそうした動きはの他の諸経験と同化、結合されて、繰り返されるもの、創造的なものになり、そして新しい動きな新しい経験の出発点になるのです。とりわけ重要なのは、おそらく、それらが自己の主張になり、諸関係を発展させる出発点になることです。〜