うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむと、【患者がわたくしを止める地点は、患者がわたくしから離れていこうとする、その地点なのです。】


 すろーじゃむは、今日から始まりました!
身体はバリバリ元気で、鍛えているせいか?55kgある方も、軽々と抱えることができました。
 足にはいつも145kg位の負荷をかけて鍛えています(笑)
マッチョにはなりたくないので、上半身は、引き締める程度にしています。(笑)

 本は、隙を見て(笑)読んでいましたが、どこまで勉強したらよいのか?なんか、見通しが分からなくなるくらいに、どんどん自分にはなかったり、忘れていたりしていたことが出て来るので、新鮮と言えばそうなのでしょうが、底なし沼にハマってしまった感もあります.....。



分析者の感情の直接表現は別にしても、感情について、今どういう感情があるのか、ある特定のときにどういう感情があったのか、あっさりと、ストレートに話すことは、しばしばある種の人たちへの助けになります。すなわち、言葉や行動を、一連の妄想的思考の観点からしか理解しないせいで、相手の人が何を考え、感じているのか、を推測できない人たちへの助けです。
わたくしが、自分の感情を顕す、あるいは表出する、という場合、愛情、友情、賞賛などの、ポジティブな感情のことだけをいっているのではありません。わたくしがいっているのは、生じてくるあらゆる種類の感情のことです。笑いから涙まで、愛情から憎しみまでです。要は、それらは現実なのだということです。といっても、わたくしは、どのような感情でも、そしてあらゆる感情を、それがあるときに、そのまま露出するように、といっているわけではありません。ただ、それらの感情は正当な場をもっており、その場所に置かれる限り、それらの感情は正当であり価値があるといっているのです。非常にしばしば、感情の使用や表出は、間接的な形をとります。その感情自体が十分意識されているときでさえ、そうなのです。わたくしはまた、分析者の感情が、相手の感情よりも強いとか良いものだ、とかいっているわけでもありません。ただ、そこにあるすべてのものはありません直接に表出するにしろ、間接に表出するにしろ、自由に活用できること、が重要だといっているにすぎません。 これを行うには、わたくしたちが患者たちに求めるのと同じ率直さ、が分析者に要求されます。そしてそのことは、わたくしたちのあらゆる振る舞いにとって、確かに望ましいことなのです。もっとも、わたくしたちの通常の生活や、重症ではない患者に対する場合にはならない寡黙や控え目は障害にはならなず、普通のことと受け取られますが、ときどき生じるように、わたくしたちは、誰かを守るためや、自己防衛のために、不正直になることを避けられません。そのとき大切なことは、その事実と、その理由とを認識しておくことです。そうでないと、わたくしたちは他者に対してだけでなく、自分自身に対しても、難題を抱えることになります。 以上のようなやり方で治療してきて、わたくしは二つの安全装置を発見しました。そして、その二つともが作動しないなんてことは稀なのです。一つは、患者が、わたくしの感情表出を止めたいともはそうすることです、Dickが身動きしてそうしたようにです。もう一つは、わたくし自身の中にあるのです。つまり自動的に気づく制限のことです。この二つ目のものは、失敗するかもしれません。それは、患者に対するわたくしの無意識の憎しみ、あるいは妄想の要素を認識であるため、のどちらかによるのです。しかし、その結果はたいていすぐに明らかになりますし、わたくしがそのことを認識すれば、それに対してわたくしのできること、はあるのです。 しかしこれら二つのことは、原初なる一に関係があります、患者がわたくしを止める地点は、患者がわたくしから離れていこうとする、その地点なのです。またわたくしが止まる地点は、わたくし自身にとって、そうすることが心地よくないからですし、患者にとっても良くない、と知っているからです。つまりその地点で、患者がわたくし自身であるかのように、あるいはわたくし自身を患者であるかのように、体験しているのです。ですからこの治療で止まることは、わたくしたち二人にとって正しいのです。わたくしにとってはこのことが、わたくしの知っている共感の最も明瞭な例の一つです。