うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

James Carrと、【つまり、責任を取り、関わり、感じ、感情を自発的に表現できて、緊張、限界に失敗、あるいは満足や成功にも、耐えられる人間になるのです。】



 昨日、休憩がてら寄った店に、James Carrが出ている雑誌がありました。
James Carrは自分が買ったR&Bのレコードで初めて買ったものなので、その時の感動を今でも覚えています。
ポスターを壁から外して、小さなレコード屋さんのご店主がくれたのも覚えています。
『The Dark End Of Street』は、本当に好きでした。
 後に、このゴールド・ワックス・レコードは、スタックスで、はじかれたアーティストの受け皿になっていたとのコラムを読みましたが、なぜJames Carrがスタックスにいなかったのか?と今でも不思議です。
 捨てる神あれば、拾う神ありというのは、こういうことか?と一人納得していたのも(笑)思い出しました。


 本は、受診待ちの時に読ませて頂きました。
 下記の
『無意識的な逆転移が、誤った反応を引き起こしがちなら、それに対する予防法手段は、分析者の絶え間ない自己分析しかありません。』は、耳の痛い言葉ですね......。


 もうすぐ、夜勤の時間になります。




分析者は一人の人間である、という表明
 精神病水準の不安を抱えた患者、特に、実際の精神病患者にとっては、分析者との不安のある程度のより直接的な接触が不可欠です。象徴化や演繹的思考は、直接的な接触が最小限のときに必要ですが、上述の患者たちには、この二つとも、欠けていたり、足りないのです。彼らの発達は障害されています。その障害が起こったのは、彼らの幼児期の現実が、徹底操作する必要のある空想と、まったく一致していたからです。そんな状況では、投影は役に立たないだけでなく、まったく不可能なのです。 どの患者も、自分の分析者の弱点や限界を見つけようとして、絶えず分析者を試しています。患者は、自分にとっての真実が、分析者にも同じように真実なのかどうかを、はっきりさせなければなりません。つまり、自我の強さと本能−緊張との関係が不適切であるという点についてです。患者が、自分の分析者は、患者や分析者自身の、不安、狂気、無力感、に耐えれないことを明らかにできると、患者は自分が感じたことほ正しいに違いない、と確信するようになります。そして、世界は粉々になって、砕け散るでしょう。どのような形であれ、患者の緊張が発散されるからです。そして、再び、患者と分析者はまったく同一になって、一つの存在になり、分割できなくなるに違いありません。 したがって、決定的に重要なのは、次のことが見つかることです。つまり、分析者は、緊張やその発散に耐えられるだけではなく、自分が耐え得れない場合がある、という事実にも耐えられる、ということです。不安とパニックの差は、分析者が、倒れるけれど、立ち上がって、再び分析を続けられればのそのときに明らかになることです。ここでは、言葉の文字通りの意味での逆転移(二番目の定義)の認識、が最も重要になります。逆転移が、患者と分析者によって、ともに認識されることができるおそらく必要でしょう。他方、分析者が逆転移を否認するとパニック逆転移が存在し患者が気づいている場合、その結果は、非常に悪いものになることもあります(次のことを承認するだけで十分でしょう。すなわち、逆転移の詳しい内容は分析者の個人的な事柄ですが、分析に影響する逆転移があれば、それは患者に関係する事柄ですし、患者にはそれを知る権利があるということです)。 どの分析者にも、無論、物事を自然に生じるままにすることが困難な、彼に固有の特別な領域が、特に内部にあります。それは、すべてコントロールという問題に関係がありますが、しかし、ある患者たちにとっては、分析者が衝動的に反応したり行動するのを見ることか、必要かもしれません。刺激に対する反応や本能衝動には生物学的な基礎があることや、自我の活動のすべてが、そのまま意識的なものではないということで思い出して見ると、分析者の仕事においても、衝動を本質的に望ましくないとか、危険だと見なすのは、間違いだと思います。どの症例においても、分析がすみやかに進み、連想が互いに次々と表れるときに、あるいは構造が変化してしまうときに、いつも患者より一歩前にいるとか、分析者がいつも考えたのちに話したり行動するというのは、不可能なことです。人は言った後で、何か言ったことに気づくのです。患者との無意識的な接触が良質のものなら、そのときで衝動的に言われた言葉は、たいてい正しかったことが明らかになります。無意識的な逆転移が、誤った反応を引き起こしがちなら、それに対する予防法手段は、分析者の絶え間ない自己分析しかありません。
こうしたことの一つでも、(ある機械とか。ある「典型」ではなく)実際に知りあっている人の中にあるもの、と意識して認識することが、自我にどういう影響を与えるかというと、転移解釈を、受け入れやすくさせ、現実を異なった観点から見られるようにさせるのです。しばしば、そうした認識が、分析の転機になったことが、わたくしにはあります。その認識によって、ある人間が、発見され、取り入れられ、イメージ的に食べられ、消化され、吸収されて、自我は中でまとまって(魔術的に取り入れられるのではなく)、一人の人間になるのです。つまり、責任を取り、関わり、感じ、感情を自発的に表現できて、緊張、限界に失敗、あるいは満足や成功にも、耐えられる人間になるのです。 そうなった患者は、分析に関われるようになり、彼の妄想不安は、直接的に軽減され、転移解釈が、彼にとって意味を持つようになります。彼は、現実に向かい合えるようになり、幻の代わりに、現実の人を相手にできるようになります。関係の発展が可能になり、それとともに、融合と分離や、他の人の中に、あるいは他の人からひきおこされた感情に、耐えようとするニーズも生じてきます。