うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

これは、あかんやろ........。と【それは、現実感が非常に損なわれている患者、妄想や幻覚を現実から識別できない患者は、転移解釈を利用できない、なぜなら、転移自体が、妄想的な性質のものだから、ということです。】


 夜勤明け、ジムで体を動かして帰って来たら、ひーひー王子が......。
これは、あかんやろと思いました(笑)。

 自転車を置こうとしても起きずに、玄関に入りましたが、起きず.....。
玄関からも写真を写してやりました(笑)。
ねこさん同様、お歳には勝てないのかも知れませんね......。




 本は、夜勤明け、休憩がてらファミマでコーヒーを飲みながら読みました。
下記は、またまた、耳が痛くなる文章でした.......。
『転移解釈を受け入れさせる困難さや、はしばしば暴力的な行動化を引き起こす、突発的な、予測できない緊張の高まりは、分析者に何かが足りないせいだと見なされてきました。不十分な自己分析、自分自身の不安の処理の失敗、分析者の方の行動化などです。』


 完全な考えや人は無かったり、いなかったりなので、いつも変化に対応できるようにしておけ!という事でしょうか?(下記を読んだ相対的な意見です)




技法への示唆
次第に明らかになってきたのは、転移解釈を利用できない、多くの患者がいるということです。利用できるためには自我に接近できるようにする、何らかの変化が必要です。そこで、どのような技法上の、そして技法論の変更が必要なのか、という問題が生じます。 転移解釈を受け入れさせる困難さや、はしばしば暴力的な行動化を引き起こす、突発的な、予測できない緊張の高まりは、分析者に何かが足りないせいだと見なされてきました。不十分な自己分析、自分自身の不安の処理の失敗、分析者の方の行動化などです。 言語化、理解、そして解釈は、極めて重要であると見なされてきました。しかし、「徹底操作」も必要であり、長い間、分析に必要な過程だと考えられてきました。重要なことは、その過程で何が起きているのか、その過程を促進するためにできることがあるのか、を理解することです。 わたくしが例として挙げたような患者たちについて考えてみると、分かることがあります。それは、現実感が非常に損なわれている患者、妄想や幻覚を現実から識別できない患者は、転移解釈を利用できない、なぜなら、転移自体が、妄想的な性質のものだから、ということです。転移解釈には、演繹思考、象徴化の使用、そして代理物を受け入れることが必要です。転移されるべく存在してほしくないものを、転移するのは不可能ですし、こうした患者たちにおいては、彼らの発達初期の体験は、転移される必要のあるものも、転移を可能にする対象としての人のイメージも、どちらも作ることができなかったのです。彼らは、いまだに、原初的な幼児の世界に住んでいるのです。ですから彼らのニーズは、そのレベルで充足されなければならないのです。自体愛と妄想のレベルです。 方法が、患者たちに現実を提示する方法が、見いだされなければなりません。彼らの多くは、日常生活に現れるような現実は、利用できないのです。 現実、そこにあって、利用できて、毎回の分析作業に存在する現実は、分析者自身です。彼の機能、彼の身体、彼の人格です。分析者の責任は、それらを、彼の患者たちの個々のニーズを満たすために使用する、彼自身の特徴的な方法を見つけること、実践できるものは何かを見つけ出すこと、患者の不安を取り扱うときに、彼自身の限界を設定すること、できるだけ意識的に、何をする気があり、何をする気がないか決定すること、しかし衝動的に行動することも、ときには反応することも、厭わないということです。これは、ありのままの自分自身を受け入れていること、の一部です。


〜わたくしたちが認めなければならないのは、人生の他の領域で見いだすものと同じパラドックスが、精神分析にもあるということです。同じものが、悪でもあり善でもあります。最も価値あるものが、危険で何が役に立たないものでもあります。このことは、転移解釈についてもその通りですし、分析者が質問に答えたり、感情を表現したり、衝動的に行動する場合についても同じ程度にそうなのです。大いに必要なことは、柔軟性(弱さではありません)、信頼性、そして強さ(堅さではありません)で、そして利用できる手段は何であれ、それを進んで使用する姿勢です。 わたくしが提示しようとしたのは、わたくしたちの誰もが望み、期待する結果が得られるには、わたくしたちが進んで、患者に対する分析者の態度というテーマに、新しい角度から接近し、分析場面で何が実際には行われているにもかかわらず、しばしば見ないことにされたり、認めないことにされていることの、いくつかを認識するのがよいということなのです。〜


〜このことが意味しているのは、自我を転移解釈に近づきやすくする方法がいつものように、吟味されなければなりません。わたくし自身は、次の何であれような疑問をもって吟味をします。





 なぜ、わたくしはこの方法を、するのか、あるいはこれをいうのか? そのことは、わたくし自身のことと、どのように関連するのか――意識的に、あるいは無意識的に?
 
なぜ、Xに対してし、Yに対してしないのか?
 わたくしは、そのことをこの患者に、するのか、あるいはいうのか、他の状況でも、他の日でも、他の時間でも?

 そのことは、どのような効果があるのか、それはなぜか? 新しい素材が、その後に続いたり生じるか?
何らかの現実的な自我発達があるか。
 同じ結果が、他の方法でも得られただろうか、もっと早く、もっと良く? もしそうなら、どのようにして、なぜ?そしてなぜ、わたくしは違うことをしなかったのか?
 人は、いつも自分自身の疑問に、すぐに答えられるとは限りません。ときには、答えが間違いだと分かることもあります。