うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

感謝と、【患者が、最終的に、自分自身で責任を引き受けられるようになるのは、信頼できて責任を果たしうる人、そしてその人に同一視できる人を、患者がもっているかどうかにかかっています。】


 バタバタとした一週間でしたが、皆様のご理解・ご協力の下、無事過ごすことが出来、ありがとうございました。
休むな間もなく、夜勤ですが(笑)。


 本は、用事の合間に読ませて頂きました。
あっぷは、先日読んだ箇所です。
 変な説明をするより、読んで頂いた方がためになると思われます。



責任性
 〜大きく分けて、患者は三群に分類されますが、各群の輪郭は不明確で一定していません。どの患者も、分析作業の異なった段階で、ある群から別の群へと移行し得るのです。


 1,明らかな精神病患者、彼らの場合、責任は他の人自身医者、看護スタッフ、身内などに委ねられますが、それは純粋に実際的な理由からです。自殺の危険、他害、一般的な責任能力のなさ、激しい行動化が、最もありふれた理由です。こうした症例の場合、主に患者を取り巻く環境が、責任に関する重圧に耐えることになりますので、分析者にとっては、一時的に、重圧が軽減することになります。


2,ふつうの神経症患者、責任性は患者自身に委ねられます。彼らは自我が損なわれていないし、現実感覚が良いためです。というのは、責任性を引き受けることは、自我の最も高度な機能であり、安定性と密接に結びついているからです。異なっ症例の場合、分析者にはほとんど重圧はかかりません。患者がかなりの程度まで、自分自身で重圧を担うからです。しかし、重要な点は、分析者と患者が、互いに責任の分担や委託があるということを認識し、かつ分析作業全体を通しての神経症最終的な責任性は、分析者にあると認識していることです。どの分析でも、患者が自分自身ではを担います一人で責任を取ろうとすなわちニーズの時期がやってきますが、彼に必要なのは、何が生じていて、なぜ生じているのか、を理解することです。どの場合でも、わたくしたちの治療状況によっては、そうした分担や委託は、ある程度避けられないことなのです。 


 3,上述した二群にはさまれて「性格障害」「精神病質」「境界精神病」という大きな群があります。彼らには、どのような責任性の委託も、きわめて困難で、しばしば不可能です。他の二群のように、一時的には委託できますが、たいていはごく限られた程度です。 この群の患者については分析者の責任が、最も明白です。患者の「管理」が非常に重要です。このタイプの患者は、おそらく分析者自身に、最も大きなたえまない重圧をかけますが!それは治療者辺野古責任は委託かまきわめて困難であるという、まさにその理由からです。他の群の患者では、治療のあまりに段階で、治療者へ責任が委託されますの特になし移行期ではそうです。例えば、精神病患者が精神病院から退院したり、神経症患者が一過性に退行したときなどです。 



分析者の責任性には限度があります。どんな人間も、ある程度以上の責任は取れないのです。次のことは憶えておく価値があります。つまり、自分で選択したのでなければ、誰も義務で分析を行えないし、非常に混乱している患者を、無理矢理、引き受けさせられることもないということです。不適切で、危険な状況だと想われたときには、分析を断る権利が、分析者にはありますし、分析の開始後でも、何らかの理由で状況が変化したときには、分析の続行を拒否する権利があるということです。 他にも二つ、自明なことが、しばしば分析者にすら忘れられています。分析者は不可能なことを試みなくてもよいし、100%の理解力や解釈力を、もっていなくてはならないわけではない、ということです。長期間の分析治療でさえ、多くのことが、最後まで残ります。患者や分析者のどちらにも理解されないままにです。 どの患者も、分析のある地点で、分析者が引き受けている責任(患者の人生や、行動化についての責任が、含まれていたり、いなかったりします)に気づくようになる必要があります。驚くべきことに、自分に関するどんなことも分析者に現実的な責任があるなどと考えている患者は、ほんのわずかです。FreudとFerenczi以後、さまざまな人が、患者が分析者を自我として利用するやり方を、記述してきました。Phyllis Greenacreは次のように述べています。「分析者は、特別な機能あるいは機能群を果たすが、それは被分析者が、それらを借用して一時的に利用し、利益を得るためである」と。わたくしは、このことは、他のことと同様に、分析者の責任機能にとっても当てはまる真実だと思います。分析の安定性は、このことにかかっていますし、患者が、最終的に、自分自身で責任を引き受けられるようになるのは、信頼できて責任を果たしうる人、そしてその人に同一視できる人を、患者がもっているかどうかにかかっています。