うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさん......。と、【Rを次のように定義します。「患者のニーズに対する、分析者の総反応を指し、患者のどの要求とか、分析者のどの反応とかを問わない」。】


朝、用事を済ませて、帰宅したら、ねこさんが死んだように寝ていました(笑)

 先程、用事を済ませて帰宅したら、餌が沢山入っているにもかかわらず、美味しい餌をくれと訴えて来ましたが、無視して用事をしていて、パソコンに向かおうとしたら、パソコンの前で仁王立ち(座りかw)していました。

 また、ひーひー王子に喝をいれてもらいましょう(笑)可愛がっているだけですが(笑)
写真がデカすぎました.......。



 本は忙しかったですが、何とか少しだけ読みました。アップは先日読んだ箇所です。
彼女の一番有名な論文でしょうか? フロイトしかり、クラインしかり、ウィニコットしかり、ここまで突き詰めて考えても課題が残るのに......。
と、反省ばかりの一日になりました.....。

 下記は、上手く支援が出来ない支援者に限って、マニュアルがないとか、レクチャーされていないとか、言って来ますが、あまりそれを意識しすぎると、支援も硬直化したり、ステレオタイプになったりしてしまう時があります。強度行動障害の研修も、パートさんでも支援ができるようにするために、指示書を作るとありますが、おそらくオールド・オーティズムの方用にしかならないと思われます。しっかりとした心理学の基礎がないと、佐々木正美先生が言うように、TEACCHプログラムですら、本当に活用しえないと思われます。昨今の発達障害の方々には、やはり、精神分析的な考え(万能だとは思っていません)が必要な感じがしています。

『解釈の価値を最大にし、その他の行動を最低限に押さえるために、制限を加えることはできます。』
『しかし、あまり過剰に制限すると分析硬直化とステレオタイプをもたらしてしまいます。制限は、絶対的なものにしたり標準化したり、できないのです。たとえできたとしても、望ましいことではないでしょう。そうするのは、分析における基本的な原理、すなわち個人というものの価値(その人自身と、社会にとっての)を、あっというまに否定することになってしまうからです。ここで個人とは、分析者のことでもあり患者のことでもあります。』


第3章 “R”――患者のニーズに対する分析者の総反応
“R”という記号
 〜ハンプティ・ダンプティは言いました。「わたしがある言葉を使うと、わたしがもたせたい意味を、ぴったり表すのだ。それ以上でも、それを以下でもない」。そして、アリスが言葉にそんなに色々な異なった意味をもたせることが、できるのかと尋ねると、彼は答えました。「問題は、どちらがご主人様かというなればことだ。それだけだ」。ここで、わたくしたちにとって難しいのは、一つの言葉に対する皆がしているような多くの異なった意味をもたせないことなのです。 この頃、さまざまな意味の間の混乱に加えて、逆転移という用語は、情緒的負荷も帯びるようになっています。そのために、論議が困難になるのです。混乱と情緒的負荷の、どちらを避けるのも、明らかに不可能です。そこで、Rです。そして、わたしが話していることの意味をはっきりさせるために、Rを次のように定義します。「患者のニーズに対する、分析者の総反応を指し、患者のどの要求とか、分析者のどの反応とかを問わない」。






定義
総反応
 わたくしは、総反応という表現を用いましたが、故意に、総括的な言葉を選んだので、その言葉に対する、わたくしの立場を明確にしておきたいと思います。わたくしは、この言葉を、次のようなことすべて含んだものとして用いることにします。すなわち、分析作業において?患者との関係の中で、分析者がいうこと、すること、考えること、想像すること、夢見ること、あるいは感じることすべてです。
 分析に来るどの患者も、種々の固有のニーズをもっています。そして、それらのニーズに対して、分析者は、さまざまな形で反応します。反応は避けられないし、価値あることです。それは、分析作業の不可欠な一部ですし、分析作業を促進する力の、大きな部分をなしています。それは、分析者の、患者に対する愛情と憎しみの間の、バランス、相互作用、そして融合の結果なのです。 患者との分析作業の中で、分析者がいうことと等しい振る舞うことは、しばしば「解釈」と「行動」とに区別されます。そこには、「解釈」だけが患者にとして真に役立つものだ、という信念が伴っています。そうした区別自体、偽りのものです。というのは、解釈の投与は、実際には一つの行動だからです。その傾聴や、タイミングなどがそうであるように。それらは、分析者が患者と握手したり、しなかったり、分析者の(患者と分析者自身の両者に)提供する状況、つまり、分析者の沈黙、傾聴、反応すること、反応しないことと同じく、まさしく行動なのです。 これらすべては、分析者の諸感情の結末です。意識的であれ無意識的であれ、そうなのです。分析者が自分の感情にどれほど気づいていたにしても、それよりはるかに無意識的な感情が、いつも存在しますし、意識的なものより多くもっとダイナミックに圧力を加えてきます。 解釈の価値を最大にし、その他の行動を最低限に押さえるために、制限を加えることはできます。しかし、あまり過剰に制限すると分析硬直化とステレオタイプをもたらしてしまいます。制限は、絶対的なものにしたり標準化したり、できないのです。たとえできたとしても、望ましいことではないでしょう。そうするのは、分析における基本的な原理、すなわち個人というものの価値(その人自身と、社会にとっての)を、あっというまに否定することになってしまうからです。ここで個人とは、分析者のことでもあり患者のことでもあります。