うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

おっちゃんやんか(笑)と、【分析者は、患者の内的世界に入り、その一部になりますが、同時に、外部に留まって、患者から離れてもいるのです。】


 夜勤明けでしたが、眠くなく(笑)なんやかんやしていたら、もうこんな時間......。
メールチェックしていたら、またもやピンタレストが(笑)
 開いた途端、笑ってしまいました(笑)
まるで、おっちゃんやんか........。
 これを見た職員さん達は、おそらく、腹を抱えて死にそうに笑っているでしょうね(笑)



 本は、何とか読みました。アップは昨日読んだ箇所です。
 下記は、本当にそう思いますし、自分が壊れては元も子もありませんね.......。
『そうするためには、進んで関わらなければなりません。ときには100%の関わりが必要です。それができるのは、分析者が、自分自身、一人の人間でいられる、その範囲でのみです。』

 下記は、良いヒントになりますね!
『結果的に、患者を個人として一人の人間として理解するということです。つまり、彼の幼児期や現在の生活の現実が、空想と同じように理解される必要があるということです。分析者は、患者の内的世界に入り、その一部になりますが、同時に、外部に留まって、患者から離れてもいるのです。』



 下記は、虐待された方々のことでしょうか? 障がいをお持ちの方々にもそのような体験をお持ちの方が多いので、その辺の手当てをさせて頂ければ、きちんとした支援ができるのでしょうか?
『剥奪された人は、最初に自分に何かを与えられないと、何も与えないのです。自分は何ら権利をもっていない、と信じているのです。』





関わること
 責任を引き受けるということは、まず第一に、患者を正確に評価することです。表層的にも深層的にもです。このことは無論、深層に含まれるすべてを、いますぐに把握するという意味ではありません。しかし、深層に存在するものがあること、そしてそれらがどの程度まで、患者の生活や人間関係の成功や失敗に関係あるのか、すなわち、どの程度まで、そしてどのように、彼が混乱しているのか、を把握するという意味です。こうした知識は、徐々に、増え、広がり、深められ、患者について、できるだけ十分に知るようにならなければなりません。すなわち、結果的に、患者を個人として一人の人間として理解するということです。つまり、彼の幼児期や現在の生活の現実が、空想と同じように理解される必要があるということです。分析者は、患者の内的世界に入り、その一部になりますが、同時に、外部に留まって、患者から離れてもいるのです。 そうするためには、進んで関わらなければなりません。ときには100%の関わりが必要です。それができるのは、分析者が、自分自身、一人の人間でいられる、その範囲でのみです。輪郭をもち、限界があり、そして輪郭の喪失、つまり融合に耐えれられること、すなわち、同一視する能力や、巻き込まれないでいられる能力の範囲内でのみです。 分析者の関わりは、いくつかの点で非常に明白です。彼は、ある合意を得たときや、その間中、患者に、注意、関心、エネルギーを注ぐと約束します。しかし、これらはすべて、人間というものの能力の通常範囲内でのことです。彼の、自分の言葉、決定、そして成功だけでなく、誤り、失敗にも、関わるわけです。〜


Freudは、「平等にただよう注意」について述べています。そして、わたくしが述べているのも、実際、分析者の注意の種類と程度についてだけなのです。わたくしが、分析者は、患者へのサービスのために、意識的なものと無意識的なもの、両者を自分自身の中で用いる、というときは、その意味なのです。 こうしたことは、患者にとって意味があり、使用できる形式にしあげて、患者に利用できるようにしなければなりません。その形式は、言語的あるいは非言語的なものかもしれません。患者の象徴化と演繹的思考の能力が、主に形式を決定しますが、それらの能力は、患者の早期発達がどういうものだったのか、にかかっています。患者によって。必要な形式は異なりますし、どの患者でも、ある時使用できて意味のあった形式が、他の時には使用できないかもしれません。 最終的には、無論、形式は言語的で解釈的なものでなければなりません。しかし対象物(リンゴ、ビスケット、毛布など)は、Mme.Sechehayeが明らかにしたように、解釈と似たような効果をもつことはできますし、後に、象徴を用いる能力が十分に発達した際に、言語的解釈と結びつけられます。 こうしたことすべて意味しているのは、分析者は、患者とともに、行けるところまで患者の病気の中に入っていく、ということです。そうしたときが、瞬間あるいは一瞬にしろ、なければなりません。そのときには、心的に、分析者にとって、患者しか存在せず、患者から離れた自分は存在しないのです。分析者は、患者が、分析者自身の内的世界に入り込んで、その一部になることを許容するのです。彼の全精神は、突然の予期しない侵入を受けやすくなり、それはしばしば、莫大な範囲にとって長期間に及びます。彼は占有され、感情は利用されます。彼は患者にすべて同一化し、患者と融合せねばなりません。そのために彼は、統合を保った、分離した存在のままでもいなければならないのです。 分析者が明らかに進んで関わったりにその関わりを明白にしようとしなければ、患者が分析に関わることが、際立って不可能になることがしばしばです。関わるというのは、何かを与え、自分の権利を差し換えることです。剥奪された人は、最初に自分に何かを与えられないと、何も与えないのです。自分は何ら権利をもっていない、と信じているのです。そうした人たちに対して明白にされなければならないのは、何かが与えられているし、それは、進んで与えられないといるものだし、与えられるということは、分析の一部であり、彼らにはそうされる権利があるということです。 与えられているものは、分析者の与えたいという要求に基づくのではなく、分け、「与える−ものを−持っている−人」が、「ニーズをもっている人」と出逢う、とって状況に基づくのです。大切なことは、分析者が、何を「分け与える」のか、そしてその限度は何か、について十分認識していることです。与えられるのは、「代用貨幣」あるいは「代理物」述べてようなものであり、実際には、患者のニーズに合致しません(本物に近づくほど、もっと合致するようになるのですが)。というのも、最も深層のニーズは、洞察の増大や現実把握力の増大によってしか、本当にほ満たされることがないからです。