うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

折りたためる茶室と、『グラディーヴァ』において神経症と精神病は並置されているか(フロイトを読むより)


 昨日、静岡で宙庵(そらあん)という折りたため、持ち運びできる茶室の展示を見て、ブースの方と話をさせていただいたら、入らせてくれました。

 自宅には、これを広げられる広い部屋はありません。うたたねや自宅前なら広げられそうですが、470,000円.....。レンタルでは、3日間5,000円+送料とのことでした。
 入ると非常に落ち着いたので、布などを使いたまには小さなお茶会もいいのかな?と思いました。


 今日は午前中電車に乗って受診してきました。電車の中で『フロイトを読む』を読ませていただいていたら、R.ホレイシオ・エチゴーレンの『精神分析的技法の基本』が良い本だとありましたが、ネットで調べても出てきませんでした。
 J.ラブランシュの名前も出てきたので『幻想の起源 』(りぶらりあ選書) は是非、読ませていただきたいと思います。
 著者が『心的エネルギーと原子エネルギーを比較して提案した隠喩に助けを求めている。つまり、私たちはそれが連鎖反応的に制御不能な仕方で解き放ちたいのか、それとも、サイクロトロンのあけげでそれを集中したいのか、ということである。私は、写真と映画の比較の提案したい。どちらの技法も、写真像という同じ手法に基づいているが、違いはその像をよぎらせる頻度に由来する。1秒間には18枚未満の頻度では、個別の像が見られるが、1秒18枚以上の頻度では、映画の特性である、動きが近くされるのである』とありました。

 以下は、少し前に読ませていただいた個所のアップです。
雨なので、そろそろ歩いて夜勤に入ります。

『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』 (フロイトを読むより)
フロイト以後
『グラディーヴァ』において神経症と精神病は並置されているか
『イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』は、文学作品に応用された精神分析という見地からだけでなく、理論的・臨床的見地からも興味深い点がある。臨床研究に関して言うとフロイトは、その比類ない観察の才能によって、彼が神経症に帰する、ハーノルドの女性に関する制止や挿話的な幻覚性妄想などの幅広い諸症状を描き出している。しかしながらフロイトは、ハーノルドの幻覚に言及する際「妄想」についてのみ語り、「精神病」という用語は使っていない。それでも、この事例で精神病について語ることはできるのだろうか。
フロイト以後の精神分析者たちの諸論評は、この点に関してさまざまである。フロイトのテクスト自体を固守する精神分析者には、ハーノルドの妄想は本質的に、意識の一時的障害と主に関係し、非精神病的で、神経症的なパーソナリティーに観察されうるものである(Jeanneau 1990)。現実否認や自我の分裂に関するフロイトにの後年?諸著作を考慮しつつ『グラディーヴァ』を読む、他のフロイト以後の精神分析者にとってハーノルドの幻覚は、耐えられない現実を否認する彼の自我の一部に属すると考えられる。同時に、彼の自我の他の部分は、それを受け入れている。この見方からすると治療は、前者が現実を受け入れて、現実を否認する自我部分に対して優位に立つ時に生じる。こうして、ラダームLadame(1991)によると主人公の妄想や幻覚は、思春期の若者たちに遭遇する精神病理の代表的なものとなるようなそして今日では精神病的代償不全が語られるところであり、予後は個人によって大きく異なるであろう。 ダニエル・キノドスDaniell Quinodoz (2002)は、「患者の『狂気』の部分に、その人の他の部分を見捨てることなくどの語りかけるか」を教える一つのモデルを、フロイトが私たちに提供している方法を明らかにした (Daniell Quinodoz 2002[2003:53])。彼女によれば、ハーノルドが妄想を呈しつつほぼ正常な生活を送っていることは、自我の分裂を意味している。それは、彼女が「混成heterogenes」と呼ぶ患者において、私たちがこの頃出会うことの多いものである。同一人物の中に、妄想的部分と現実を考慮する別の部分が共存している状態は、精神分析者を特殊な接近技法に導く。だから、ツォーエはハーノルドの妄想に取り込まれてはいないが、彼に直ちにそう言わないように気をつけている。ツォーエは、ハーノルドの妄想的な部分によってだけでなく、現実を考慮している部分によっても理解されることができる、「二重の意味がある」言葉を用いている。
フロイトのテクストの読解を後の時期の仕事に照らして行うと、私たちは彼が記述する臨床事例の大部分で、精神病に関わる典型的な諸機制と神経症に関わる諸機制か、1895年の『ヒステリー研究』から1918年の『狼男』の症例に至るまで、概念化されることなく並置されているのに出会うことを確認できる。事実フロイトは『精神分析概説』(1940a[1938])で、現実を否認する自我の部分とそれを受け入れる自我の部分が、比率は違っても精神病患者や正常な者にさえ見いだされることを示している。
最後に、数名の論評者はこのフロイトのテクストに偏在するフェティシズムの問題性を強調した。例えばジャン・ベルマン・ノエルJean Bellemin-Noel (1983)は、足フェティシズムからグラディーヴァの歩行へのフェティシズムまでを指摘している。