うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむと、今日の日中と、【わたくしは、精神分析の進歩が、転移を無視したりおろそかにすることで、遅れてしまったと同じ程度に、逆転移の利用に失敗することで、まったく同じ結果にならなければいいが、と思っているのです。】


 今日は事務仕事の一日になるはずが(笑)昨日、愛知県の方にすっぽかされて(笑)早朝にチャリティーの現場と、義母が療養病棟に移るので来てくれと急に電話があり、それが済んでから、現場に入らせて頂きました。
 夕方は、学齢児さんの入浴介助で渥美に走りましたが、本当に寒く、ヒーターをつけた時点での、表示が6℃でした(居室内で.....)。
入浴介助時は22℃になっていたので、ほっとしました。本当に寒い時には、これにエアコンを32℃(これが最高です)にしてつけています。介助者は真夏並みなので、半パンにTシャツでちょうどいいです。




 日中は、散歩がてら、池ノ原に行きお薄を頂いてきました。
お菓子は、寒牡丹とのことでした!
 今週の?先生のお点前が一番好きなので、先生のスケジュールをお聞きすれば良かったですね。
お菓子のお皿も、冬になってから、水屋で温めて下さっていて、お皿に触れると、尖った神経が緩んでいくのが分かりました。

 明日は、また名古屋なので、早めに寝ます!



 

 アップは昨日、車で読んだ箇所です。
逆転移に踏み込んでいます!


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 驚くべきことに、逆転移に関しては、今まで、ほとんど書かれてきていません。主に、訓練中の学生のための技法に関する本や論文で、書かれているくらいです。それらに執筆している筆者たちは、全員、同じ二つの点を強調しています。つまり、逆転移の重要性と潜在的な危険性、および分析者自身の徹底的な分析の必要性です。転移についてはもっとずっと多くのことが書かれています。それなのに、逆転移に関して、ほとんど書かれてこなかったのは、なぜなのか疑問です。また色々ね人たちがそれまで逆転移という用語を色々な意味で用いているのは、なぜなのかも疑問です。逆転移という用語は、以下のことの、いくつか、あるいはすべての意味で、用いられています。
a,分析者の、患者に対する、無意識的な態度。
b,抑圧されている諸要素で、いまだ分析されぬままのものが、分析者自身の中で、患者に結びつけれてしまう。それはちょうど、患者が、両親や小児期の対象に関連する感情などを強調分析者に「転移」するときと同じである。つまり、そうなった分析者は、(一過性に、そしていろんな形で)自分の両親に対すると同じように、患者に対する。c,特殊な態度や機制ことで、分析者は、そうした態度や機制によって、患者の転移に対する。d,患者に対する、分析者の態度や行動のすべて。この中には、患者以外の人を対する態度や行動もすべて含まれるし、あらゆる意識的な態度も含まれる。



 問題は、なぜ逆転移が、それほどまでに定義されていないのか、定義できないのかという点です。逆転移についての包括的が理論が、まだまとまっていないし、取り扱いがやっかいなので、真の逆転移だけを切り出すことが不可能だからでしょうか?わたくしは、次の四つの理由があると思います。

1,無意識的な逆転移は、それ自体を、直接、観察できず、それがもたらす結果しか観察できないものだから、と言えるでしょう。その困難さは、物理学者が、光波や重力などとして現れる力を、なんとか定義したり観察しようとするけれど、直接には、見たり観察できない、ときの困難さに比べられるでしょう。2,困難な理由の一部は、(メタサイコロジーの視点から考えると)分析者の示す態度全体には、彼の全精神が、自我のみならず、イドや、あらゆる超自我の残渣も含まれるからであり(分析者はまた、患者の中の、これらすべての要素に関わります)、これらの諸要素を区別する、明確な境界がないからだと思います。3,あらゆる分析には(自己分析ですら)、当然、分析者と被分析者が必要です。ある意味では、その両者は分けられないものです。そして同様に、転移と逆転移は分けられないものです。それは、一方について書かれたことは、ほとんどそのまま、もう一方にも当てはまる、という事実に示唆されています。4,以上のことのどれよりも、もっと重要なことは、逆転移、つまり自分自身の感情や思考に対して、一つの態度が存在することです。それは、パラノイド、あるいは恐怖症的な構えです。特に、自分自身の感情が、主観的だったり、主観的かも知れない場合に、そうなのです。 

 技法に関する論文の一つで、Freudは、精神分析の進歩が、転移を解釈することへの恐れのために10年以上も停滞してしまった、と指摘していますが、今日でも、他の学派の精神療法家は、転移解釈をきわめて危険で避けなければならないこと、と見なしています。逆転移に対する多くの分析者の態度は、それとまったく同じです。逆転移は、知られているし、認められています現象だけど、逆転移を解釈するのは必要ないし危険ですらある。という態度なのです。どのような場合でも、無意識的なものは、(できたとしても)簡単には気づかれないし、そして、自分の中にある無意識的なものを、観察し解釈しようとするのは、自分の後頭部を見ようとするようなものです――他の人の後頭部を見るほうが、ずっと簡単です。患者の転移が、投影と合理化によって(この二つのメカニズムはパラノイアの特徴ですが)、簡単に回避されやすいという事実や、まったく感情を表さない、被人格的な、ほとんど非人間的なといってもよい分析者という神話は、前述の態度と合致するわけです。わたくしは、精神分析の進歩が、転移を無視したりおろそかにすることで、遅れてしまったと同じ程度に、逆転移の利用に失敗することで、まったく同じ結果にならなければいいが、と思っているのです。逆転移を正しく利用できれば、わたくしたちは、もう一つの、不可欠なものではないにしても、きわめて価値のある道具、を見つけたことにならないでしょうか?〜