うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさんと、【その要素とは分析家自身の超自我の厳しさである。】


 今日は、休みでしたが、給与計算等で結局、夕方まで現場にいました。大分仕事がはかどりましたが、チョコレートやたい焼きの差し入れがあり......。せっかくへこんできたお腹が........。(-_-)帰りは、自転車で坂のきつい道を選び、帰って来ました(笑)
 寒い日もありましたが、今日は日中暖かかったですね。ねこさんもまるで枕をしているかのように、寝ていました(笑)
畑でうんちもしていたようです.....。


 本は昨日読んだ箇所です。今日は本を触る事なく一日が終わろうとしています(笑)
貴重な箇所と思えたので、アップしました。
『その要素とは分析家自身の超自我の厳しさである。』は、考えさせられる言葉ですね。
厳しくないといけない時やそうしないと分かって頂けない方もいますし、ゆるすぎてもいかないし.....。
 ほどよいという言葉が本当は良いのでしょうが、北山修先生が言っているように、ほどよいという言葉は、ウィニコットの訳でよく出て来ていた気がします。ウィニコットははっきりした答えを出していなくて、それを読んだ人の判断にゆだねている所があるようなことを、北山修先生が書かれていました。
 マニュアルを異常に求める方がいますが、同じ人間がやるなら意味があるでしょうが、違う人間が同じマニュアルで支援ができるほど、簡単な仕事ではありませんね。
アウトラインしか学べないので、個が頑張るしかないですね.....。



分析家の超自我の役割
 理解していないという時期にあることで分析家が情緒的に混乱してしまっているその程度は、おそらく第1にはもう1つの要素によっているだろう。その要素とは分析家自身の超自我の厳しさである。というのは、分析はこの内的な像によって要求される作業の一形態でもあるからである。ついでながら、その内的な像を要求がましい患者がときどき表象するようになることがある。もし超自我がかなり親しみやすく協力的なら、自分の限界にたいした苦痛もなく耐えられるし、混乱することもなく患者ともそれだけ速やかにふれあいを回復しやすくなるだろう。しかしそれが厳しいものであるなら、失敗の感覚を無意識に迫害的あるいは抑うつ的な罪業感の表現として意識するようになるだろう。あるいは、このような感覚に対しての防衛として、患者を責めるだろう。






長引いたとり入れと投影の例
 第1の選択肢の例、すなわちとり入れの例は、うまくいかなかったセッションについて分析家が自分自身と患者のために必要以上に思い悩むときに見られるかもしれない。分析家は自分の昔のある悩みをまだ味わっているかのように、そしてまるで身体的にも患者の悩みも背負わされたかのように感じるかもしれない。分析家はその2つを区別してはじめて、自分が捕らえそこなったものが何であるのかを理解でき、そこで患者を再び降ろすことができるのである。

〜言い換えれば、理解あるいは援助できない患者のとり入れを長引かせてしまう分析家の傾向と、メラニー・クラインによって記載されているような、その患者を援助できない分析家に自分自身の一部を投影する患者の傾向との共生があるようである(患者が最も取り除きたがっているものが彼自身の破壊性であるならば、このことはとりわけ混乱をもたらすだろう)。 このような場合に分析家が患者を理解したり再投影したりするのに時間がかかるということの根本的な原因は、分析家が自分の中で速やかに理解できていない何かを患者を表すようになってきているということであろう。もし分析家がやはりできないままで、分析家の内部での修復できない人物あるいは迫害的な人物としての患者に苦しめられている感覚に耐えられないなら、彼、患者を拒絶ししかも理解を妨げるさらに高い障壁を築くという防衛的な再投影に訴えるだろう。 もしそうであるなら、分析家が患者に投影する際に彼自身の側面も同時に投影することで、新たな面倒が起こるであろう。それから分析家は自分自身の内部で働いている投影同一化のメカニズムを検討する機会を得ることになるだろう。そのメカニズムについてはメラニー・クラインの影響のもとにロゼンフェルド(1952)やその他の人々、精神分裂病患者において実り多い成果を上げてきた。しかしこのことに驚く必要はない。というのは、精神疾患における病理学的なメカニズムが発見されたことに続いて、正常に人々においてもそれほど際立ってはいないがそれが存在することがたいてい認められてくるからである。私が考え、いるそのような過程の“スローモーション”の例は、かなりありふれた週末の経験において見られるだろう。分析家はその週の仕事を終えた後しばらくは、彼の患者のいくつかの解決されていない問題で意識的には頭が一杯であろう。それから彼はそれらのことを忘れる。しかし意識して関心を抱いていたその時期が過ぎた後には、たいていは余暇を費やす個人的な興味が枯れてしまっている活気のない時期が続く。これは、空想の中では、患者とともに彼は彼自身の一部を投影してしまっており、いわばこれらの投影したものが彼に戻ってくるまで待たなければならないからである、と私は考えている。 セッションの中でこのように自己が部分的に失われることが起こると、しばしばそれは知的能力が失われることとして経験される。分析家は頭が鈍くなったように感じる。患者はこのような結果に当然寄与していよう。おそらく、患者はすぐに解釈を与えられなかったために欲求不満を感じ、無意識に分析家を去勢しようとしたのであるようでそして患者は分析家を去勢されているかのように扱うことによって、分析家自身が去勢されたと感じるように仕向けたのである。〜