うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【分析家も患者と同様、体験の共有や交流を求めるばかりでなく、不快さを排除したいと望むものである。それは普通の人間の反応である。】



 午前中は、初立池に行きましたが、ほぼジョギングだったので時間があまり、滝頭公園も一周してきました。
午前中だけで10,000歩あるきました!
 景色は、秋の深まりを感じられるようになっていました。

 午後からは、サンテパルクに行き、1週と三分の二を1時間かけて歩きました。
芦が池の水面は、栄養分があり過ぎるのか?泡立っていましたが、こんな素敵な光景もあり、見とれてしまいました。(笑)

 沢山歩くと、今日の気温でも汗が出たので、すろーじゃむの湯に行き、ゆっくりと大きな湯船に浸かって(としちゃんです)きました。
身体を温めてから、うたたねに戻りました。
 こんなに歩いても、肩こりが改善されません......。



 本は、早めに出て、ファミマで読みました。アップは、先日読んだ箇所です。
精神分析だけでなく、なんでもワーク・スルーしないことには、何事もできませんね!
やっていても、何の変化も感じられなくても、繰り返し、繰り返しやらない事には、自分の物にはなりません。と思いながら(自分に言い聞かせながら)読みました。



3,逆転移のワーキング・スルー
 イルマ・ブレマン・ピック
 初期の理解では、逆転移精神分析の構成要素というよりはむしろ何か異質なものと考えられていた。しかしハイマン(1950)は、逆転移の利用が精神分析にとって重要な手技であることを示唆し、逆転移を病理的な逆転移反応と区別した。この区別は私たちの精神分析的研鑽での根本部分のひとつだが、私が示したいのはとても臨床場面での現実問題多くの問題を孕んでいることである。なぜならば逆転移逆転移反応とはそのような絶対的な区別ではなく、ある枠の中での相対的な変動にすぎないからである。
 この問題への私たちの理解をすこぶる前進させたのはモネー・カイル(1956)であった。彼は、患者の投影物についての分析家の体験がその素材に対する分析家自身の内的反応と密接に結びついているさまを示した。たとえば、ある分析困難な時期において、患者が無力な自己を分析家に投げ入れている投影が、適切な速さで素材を理解しなかったという分析家自身の職業的無力感と混同されてしまい、この2つが解きほぐされる必要があった例をあげている。

事実、患者の体験をとり入れようとする時、私たちはある体験なしにそれがとり入れることはできない。生来の潜在能力として乳房を求める口があるなら、その心理的な相当物もあると私は考えている。すなわち、ある心の状態を求めるもうひとつの心の状態である。 子どもや患者の投影同一化は、反応を引き起こすことを目指した行動でもある。すなわち、投影が引き起こされる生身の対象の中にまず起こるのはある反応である。分析家によってはこの反応に気づかないほどに素早くその投影を取り扱うかもしれない。しかし、それは重大なことである。出会いは、相互反応であるから、もしそのように素早く取り扱われてしまっているなら、より深い体験が実はそこで避けられているのではないかと問うべきであろう。

精神分析的な機能は自我の葛藤のない自律領域において生じてくると言うつもりでない限り、患者の投影をよく味わう時のみならず私たち自身の反応を理解するときにも伴ってくる問題を、私たちは考慮せねばならない。こうしてこれらの問題は詳しく調べられるようになる。分析家も患者と同様、体験の共有や交流を求めるばかりでなく、不快さを排除したいと望むものである。それは普通の人間の反応である。患者が行動で表される対応を求める一方、分析家は行動しようとする衝動を抱いている。そのいくつかは、解釈の中に表出されるであろう。それは、言葉で患者を愛撫するというそれとない甘やかしから、さらには患者が望む体験の剥奪などまったく重要でないと言っているかのような敵意や冷淡な対応まで幅がある。すなわち必要なのは部分対象としてのメカニカルな体験であるという考えである。 しかしながら、解釈や解釈を与える行為は、単なる言葉の部分対象的な選別ではなく、分析家側の統合的かつ創造的な行為である。そこには、何をいかにとり入れたかについての口に出されていないコミュニケーションやある種のコミュニケーションも含まれ、またとり入れられなかったものについての情報も含まれるのである。 解釈を受け取る患者は、言葉そのものや、その言葉の意識的な意味ばかりを“聴く”わけではない。“ムード”のみを聞き取り、言葉自体はまったく聞いていないように思える患者もいる。ジョセフ(1975)は、患者の言葉によって私たちは誤った方向経導かれるかもしれないこと、すなわち、対話のムードや雰囲気が言葉より大切です点をみごとに描き出している。患者は変わらぬ調子で語り、また変わらぬ態度で分析家の言葉に耳を傾けるであろう。患者の認知は、自分自身の内的な状態や空想によってかなり支配されているかもしれない。しかし、1652年のクラインの報告にあるように「幼い子の心では、すべての外的体験は、彼の空想と織りまぜられることそして……空想すべては現実の体験の要素を含んでいる。転移状況の深い分析によってのみ過去の現実側面と空想側面とを見いだしうる(p,437)」と私は考えている。 必然的に、患者も意識的無意識的に現実存在としての分析家をとり入れるものである。赤ん坊に乳首を与えている母親のことを話題にする時、私たちは乳首ー口の単純な関係とは考えていないことすなわち、赤ん坊は乳首を吸う体験の影の部分をとり入れていると考える。そこには常に、実際の行為過程よりも多くが存在する。私たちは次のような報告を目にする。「患者が喋り、……分析家が解釈した」。しかし、この文脈には入り組んだことがらが実に多いのである。患者の内的世界の特徴をいかに分析家が思い描くかという問題に取り組むには、私たちは患者の内的妄想−分裂世界の中に入り込むことが必要なだけでなく、患者に対する意識的無意識的衝動と患者に対する感情との間の緊張をもちこたえ、ワーク・スルーする柔軟さも要するのである。 患者の分析家への絶えざる投影は、分析での不可欠な要素である。すなわち、あらゆる解釈は、妄想−分裂態勢から抑うつ態勢へと転換することを目的としている。このことは、患者のとってだけでなく、退行とワーク・スルーを繰り返し必要とする分析家にとっても当てはまる。私は、真の深い解釈と表面的解釈の違いは、患者がどのレベルで話しかけたいるかということではなくて、分析家が解釈を与える行為において、その過程を内的にどれほどワーク・スルーしているかによるのではないかと考えている。